2008年 07月 25日
回顧1
カブールから日本へ向かう途中のドバイ空港で、
今回の一時帰国では何をしようかなと心を弾ませていた。
午後3時にカブール空港を出発、午後5時30分にドバイ空港に到着したが、
乗り継ぎの関西空港行きエミレーツ/JALコードシェア便は深夜2時35分にならないと飛び立たない。
時間がたっぷりあるのでPCでメールをチェックしようと思い、空港のロビーのはじっこで
壁にあるソケットにコンセントを差し込み、地べたに座りながらドバイ空港の一角を占領した。

Outlook Expressを開くと、メールが沢山受信ボックスに入っている。

・・・一両日中に全土が退避勧告になりそうだ・・・
日本からこちらに帰任できないかもしれないから、そのつもりで本部と調整して来てください・・・
8月の予定は全て取り止めにしたいと思います・・・

矢継ぎ早に入ってくるメールを読みながら、これらの文字が僕にとって一体
何を意味しているのか、よく理解できないままでいた。
どうやら、アフガニスタン全土が渡航延期から退避勧告へ引き上げられるらしい。
しかし一体何故?このタイミングで?全ての日本人がアフガニスタンから引き上げる?
飛行機で移動している間に、何か重大な事件でも起こったのだろうか。
大きな事態が知らぬ間に進行しているその状況をよく把握できないまま、
自分の頭を整理しているところへ新しいメールが入ってきた。

「首都カブール、ジャララバード、ヘラート、マザリ・シャリフ、バーミヤンの各都市:
退避を勧告します。渡航は延期して下さい。」

画面に並んだメールの文章の中で、そこだけが周りから切り離されてくっきりと浮かび上がっていた。
あの時に、あの場所で、僕の人生の一部分は自分の意志とは関係ない形で決められていたのだ。
自分の決断ではないものにより、僕の人生はある種の方向付けをされていたのだ。

ちょうど一年前のその日―2007年7月25日―のドバイ空港での風景を思い返しながら、
過去の一年間という日々が、僕にとって何を意味していたのかということについて考えている。
[PR]

# by aokikenta | 2008-07-25 23:55 | 日記(イスラマバード)
2008年 07月 24日
破綻
「破綻」という言葉は、人格的破綻とか破綻国家とか色々な文脈で使われていて、何故だか知らないが魅かれるものがある。
破綻、破綻・・・と頭の中でリピートしていたら、そういえば、ダリ語で「終わった」ということを「ハッタム・シュット」というのだということを思い出した。
ウルドゥー語でも「終わる」ことを「ハッタム」というのだろうか。「破綻」と「ハッタム」は音感的に似ていて、意味合い的にも当たらずとも遠からじだ。
人格的に終わっている、終わっている国家ねぇ。
どうでもいいけど。
[PR]

# by aokikenta | 2008-07-24 04:09 | 日記(イスラマバード)
2008年 07月 23日
停電
去年、出張でカブールからイスラマバードに来ていた時には、街の電気は24時間来ていたのだが、
去年のクリスマス辺りから一日に5時間から6時間、停電が発生するようになった。
停電というと、何の前触れもなくブチッと電気が来なくなるイメージがあるが、イスラマバードの停電は、
完全なる計画停電で、毎日ほぼ決まった時間にやってくる。僕の住む地域では、

午前10時~11時
午後14時~15時
午後18時~19時
午前01時~02時
午前06時~07時

の一日5回合計5時間の停電がある。
これも、時期によって微妙に1・2時間タイミングがずれたり、回数が6回になったりするが、大体同じようなものだ。
当初、水不足によって水力発電でできる電気が減少したので停電を実施していると説明を受けたが、
モンスーンシーズンに入った今でも計画停電は続いている。何故だろう?

電気は生活に必須の基礎的インフラなので、しっかり24時間供給しないと民衆の政府に対する不満が溜まるのではないだろうか。
あるいは、民衆は長い間、自分達の期待に応えてくれずに自分の既得権益を守ろうとする政治家ばかりを目にしているので、
怒りすら忘れて自然にそれを受け容れざるを得ないメンタリティーに陥っているのかもしれない。

この前、停電で電気が切れた時に、デスクトップパソコンの電源が強制的にオフになってしまい故障してしまった。
修理に出したのが戻ってきたので、今日、ブルー・エリアへUPSを買いに行った。
数軒お店を回ってみたが、パソコン1台が3~5分間持つくらいの一番安いUPSが売り切れになっていた。
誰も考える事は同じみたいだ。
[PR]

# by aokikenta | 2008-07-23 03:14 | 日記(イスラマバード)
2008年 07月 14日
キーマ・カレー
昨日久しぶりにサッカーをしたら、運動不足だったからか体の節々が痛い。
やっぱり2、3週間エクササイズをしないと体力がガクッと落ちるみたいだ。

お昼に食べたキーマ・カレーが美味しかった。
この料理は、大抵の日本人の味覚にも合うのではないだろうか?

そういえば、毎日停電が決まった時間にあるのだが、今日の午後は停電がなかった。
ルーティーン化されていると思っていたのに、たまにこういうことがある。
ある地域や区画の電気を停電にしたり元に戻したり際に、一体、発電所ではどんな作業をしているのだろう?
単純に、レバーみたいなものがあって、それをガチャンとやってオンかオフにするだけ?
だとしたら、今日停電にならなかったのは、単なる担当者のレバーの下ろし忘れだったりして。
そんな単純な仕組みじゃないかもしれないけど、そういうことがあり得るだけに怖い。

e0016654_446458.jpg

↑牛肉のひき肉をつかったキーマ。日本のひき肉カレーに近い。

e0016654_4462557.jpg

↑主食のナン。香ばしくておいしかった。
[PR]

# by aokikenta | 2008-07-14 04:54 | 日記(イスラマバード)
2008年 07月 12日
読書、ブルー・エリア探索、高層ビル
今日は朝から仕事をしようと思って9時に事務所に出たはいいけど、10時~11時の計画停電の間に部屋に戻って寝転がったら13時前まで寝てしまった。思ったより疲れていたようだ。お昼を食べてから、伊勢崎賢治の新しい本『自衛隊の国際貢献は憲法9条で:国連平和維持軍を統括した男の結論』を読んだ。短い本なので2時間くらいで読み終わった。東チモールやシエラレオネの経験にも触れているが、ほとんどはアフガニスタンでの武装解除の経験について書かれており、これからの日本の自衛隊の国際貢献のあり方について提言がされている。印象に残ったのは、P.118の

僕はこれまで、武装解除は成功したと言ってきたけれど、もう成功とは言えない状況だ。せいぜい「完了」というべきものだろう。単独では「完了」したが、SSRという枠組みの中では、「失敗」なのだ。

というくだりだ。ここだけを抜粋するのは公平性にかけるかもしれないので、書こうかどうしようか躊躇したのだが、こういう内面の吐露を見たのは初めてのような気がして非常に印象的だった。この抜粋文に至るまでには、アフガニスタンに元々あった社会構造にほとんど配慮を払わずに国際社会が全く新しい国家の建設を始めようとしたこと、DDR後に「力の空白」が生まれてタリバンが復活する予測をDDR開始前から持っていた事、日本がある種の貧乏くじをひかされてDDRをやることになった経緯などが述べられている。重ねてになるが、上の文だけの抜粋は誤解を招くかもしれないので、アフガニスタンに興味がある人には一度全部を読んで欲しい。僕も、2001年冬のアメリカのアフガン空爆以前の状況まで遡って、改めてアフガニスタンについて考えたいと思う。

本を読んでから、ブルー・エリアに散歩に出かけた。うちの現地スタッフは前に「Blue area is one of the biggest business points in Asia(ブルー・エリアはアジアにある最も大きなビジネスポイントの一つだ)」と誇らしげに言っていた。ほんまかいな。パキスタンでは大きい方だと思うけど、アジアという枠組みを持ち出したら「そりゃないぜ、ベイビー」と思わず叫んでしまうくらいの規模だ。ファイサルモスクは確かにアジアで一番、世界に二番目くらいに大きなモスクだと聞いた事がある。それは納得できるなぁ。確かにファイサルモスクは大きい。

シティ・バンクから大統領官邸方面へ向かって歩いて、Heleem Ghar(ハリームがおいしい)、Jahangir(けっこうちゃんとしたパキスタン料理屋さん)、Savour Foods(チキン・ビリヤーニがおいしい)などのレストランを通り過ぎて、大統領官邸の手前で左折、F6スーパーマーケットまで歩いた。暑かったので疲れた。

e0016654_3501827.jpg

↑ブルー・エリアの真ん中辺り、レストランが立ち並ぶ。

e0016654_351616.jpg

↑ブルー・エリアから大統領官邸を望む。

e0016654_3513537.jpg

↑「パキスタンの首都イスラマバード。近代的な高層ビルが立ち並ぶ。」と書いたら、イスラマバードというのはすごく発展してるんだなぁと思う人が多いことだろう。しかし、実際には、イスラマバードにはこの一角にしか商業用の高層ビルはなく、ほとんどは5階以下の建物だ。写真が与える印象は怖いですね。
[PR]

# by aokikenta | 2008-07-12 04:01 | 隣接国探索②漂流パキスタン編
2008年 07月 11日
ダマネコ展望台
メラニン色素に紫外線を直に感じる一日だった。
最近は雨が降って気温が下がる日が続いていただけに、余計暑く感じた。

仕事が終わってからサイード・ブックバンクに行って、Ahmad Rashidの
最新刊"Descent into Chaos: How the war against Islamic extremism
is being lost in Pakistan, Afghanistna and Central Asia"を買った。
Ahmad Rashidは"Taliban"や"Jihad"を書いた人で、この本は面白いと
何人かから薦められたので早速買ってみた。読むのが楽しみだ。

晩御飯は、同僚とハウスメートのノルウェー人とアフガンで一緒だったKさんと
ダマネコというマルガラヒルにある展望台に行って食べた。
ダナネコ展望台はイスラマバードが一望できる、イスラマバードに来たら是非一度は訪れるべきスポットだ。
僕は、ダマネコに当て字を当てるとしたら、絶対「騙猫」だと思う。
全然意味はないが、そんな妖怪がいたらキャラクター設定が楽しそうだからだ。

ビリヤーニとチキン・ボーンレス・ハンディとヨーグルトとシシケバブを食べて、満足して帰った。
今日撮った写真ではないけど、どんな場所かわかるように昼間の写真だけ。

e0016654_3753.jpg

↑晴れた日にはソルトレンジまで見えるらしい。ちなみに、左の人達は通りすがりの人達で面識はありません。
[PR]

# by aokikenta | 2008-07-11 03:09 | 日記(イスラマバード)
2008年 07月 10日
戦略的、地政学的
アフガニスタン/パキスタンで、最近、更に治安が悪化している。イスラマバード(パキスタン)、カブール(アフガニスタン)、カラチ(パキスタン)で連続して爆弾テロが発生した。7月6日に、イスラマバードで自爆テロが発生して20人前後の警察官が死亡したと伝えられている。これは昨年7月のレッド・モスク籠城事件を記念するイベントが開かれている会場に集まった警察官を狙った攻撃だったようだ。7月7日には、カブールのインド大使館を狙った自爆テロで41人が死亡、140人以上が負傷したと伝えられた。また、同日7日には、カラチで小型爆弾が連続爆破し、30人前後が負傷、1人が死亡した。イスラマバードでは、デンマーク大使館爆破事件以来、大きな事件は発生していなかったので、一瞬、在留邦人の間で緊張感が高まった。

気になるのは、カブールのインド大使館自爆テロ事件だ。これに関してはタリバンが犯行声明を出しておらず、責任を否定しているので、公に出ている情報では誰がやったのかよくわからない。アフガニスタン人の感覚で言えば、アフガニスタンと仲の良いインドの大使館を狙う集団は、パキスタン以外にはないだろうという考えになる。実際、カルザイ大統領は、「パキスタン」とは名指しをしなかったが、「Foreigners(外国人)」がこの事件の黒幕だ、とパキスタンのことを暗に(というかほぼ明らかな形で)非難している。また、他のアフガニスタン政府高官も、ISI(パキスタンの諜報機関)が事件の背後に深く関与している、と受け取れる発言をしている。この様子は、先月、カンダハルの監獄がタリバンによって爆破された際に、「いつでもパキスタン国境を越えて軍を送る気がある」と、パキスタンのことを公然と非難した場面を彷彿とさせる。

しかし、事態はそんなに簡単なのだろうか?
確信があるわけではないが、これでパキスタンが犯人だとすると、三流ミステリー小説のトリックみたいに簡単過ぎはしないだろうか。別に、現実はミステリー小説ではないので犯人が簡単に見つからなくてもいいのだが、なんとなく釈然としないものがある。

というのも、パキスタンの側からすると、カルザイ大統領が公然とパキスタンを非難する背後には、それを言わせている「誰か」がいるに違いない、という発想になるからだ。パキスタンで「誰か」が背後にいるとほのめかす場合、それはアメリカでもイギリスでもなく、ほぼ間違いなくインドであることを意味する。だから、パキスタンにしてみると、公然とは発表しないが、インドが背後からカルザイ大統領にパキスタンを非難させている、という風に考えているのではないかと思う。

それに、タリバンが犯行声明を出していないからといって、本当にタリバンが犯人ではないと言い切れるわけではないのではないだろうか。何故なら、タリバンが事実を隠すことでパキスタンが悪い立場に陥ることになるので、それはタリバンにとっても戦略的には有効な嘘ということになる。

今回の事件の犯人は一体誰なのだろう。
インドがある種の自作自演をしている?
やってないと声明をだしているけど、本当はタリバンが行った?
それとも本当にストレートフォワードに、ISIが背後で関与している?
そのどれかが正しいかもしれないし、全然違うグループ(アルカイダ等)、或いは、他の国の仕業かもしれない。
手に入る情報が少なすぎて結論が導けないが、とにかく、何者かによって、意図的にこの地域の国際関係は悪化させられていると思う。
[PR]

# by aokikenta | 2008-07-10 04:43 | 日記(イスラマバード)
2008年 06月 25日
炸裂ラホール (前編)
プロローグ
それは、僕に「絶望」を予感させた。
西の空では、雷光がディスコテックの照明のように断続的な光の明滅を繰り返し、
横から殴りつける強い風と、雨が降る日特有の匂いが辺りを覆っていた。

ひょっとしたら、ラホール行きのバスは運行キャンセルになるかもしれないな。

それが、僕がその朝、玄関を出て最初に思った事だった。
そんな事態に陥ると僕は大変に困るのである。
そうだ、僕はこの旅行を楽しみにしていたのだ。
ラワルピンディ探索2回、イスラマバード探索1回を経て、
とてもいい流れでパキスタンという国を楽しんでいたので、このまま
ラホール旅行につなげて行きたいという気持ちがあった。

それに、平日の運動不足から来る体全体の倦怠感が拭えなかった。

倦怠感。

イスラマバードでは、それなりに大きい家、三食ご飯を作ってくれるクック、
身の回りの世話をしてくれるハウスキーパーに囲まれて、不自由のない生活をしていた。
しかし、体の底から沸き出てくるエキサイトメントを感じる事ができず、
不完全燃焼を抜けられないでいた。

今回のラホール旅行は、僕にとっては、まるで停滞ムードを切り裂く
中村俊輔のフリーキックのように、倦怠感という目の前の暗闇を引き裂く
ブレイクスルー的役割を担うはずであった。

だから、僕は、その日の朝の天気を見て、ひょっとしたらバスが
キャンセルになるかもしれないと思って、絶望を予感したのである。

しかし、バスは僕の最初の予想に反して、スケジュール通り運行した。
おかげで、念願だったラホール旅行を実現することができた。
今週は、片道300キロあるラホールまでバス日帰り旅行だ!

e0016654_2013066.jpg

↑イスラマバード-ラホールの位置関係図。

ラホール日帰り旅行
パキスタンを見て回りたいとずっと思っていた。イスラマバード近郊の主要な街は時間をかけて、大分見て回ることができたので、距離的には遠い場所にあるラホールやカラチやクエッタ等の大都市や、北部の山脈地帯を訪れたいと言う気持ちが、ずっと自分の中で燻っていた。僕は、ラホールに行きたいと思った。以前、ラホールの夜明けという文章を書いたが、成田からイスラマバードへ向かう時のトランジットで目にした暗闇に浮かぶライトアップされたラホール・フォートが、瞼に焼き付いて離れなかった。それは大袈裟な表現ではない。どこかパキスタン国内旅行をしよう、と思うたびに、ラホール・フォートの雄大な姿が僕の心を占領した。だから、僕はスケジュールの関係から1泊も出来ない日帰り旅行しかできないけど、ラホールに行こうと躊躇なく思った。そして、金曜日の朝、事務所件住居を出発してラワルピンディへ向かった。

Daewooという韓国の財閥が、パキスタンでかなり質の高いバスサービスを提供している。そのバス停がラワルピンディにある。僕は、以前、仕事でペシャワールに行った時にそのバスを利用したことがあったので、それを思い出して、今回の旅行でも使う事にした。前日に、朝6時発のラホール行きバスを予約したので、その日は、朝4時半に起床、5時にマルカスでタクシーを拾って(バザールの中心地に行くと、家に帰らないで車の中で寝ているタクシーが数台あった)、ラワルピンディへ向かった。家を出た時点で、空が曇っているし、雷が遠くで鳴っているしで、嫌な予感がしていたが、案の定、タクシーに乗るやいなや土砂降りになった。雨季という表現が適当なのかどうかはわからないが、パキスタンでは6月の後半になってから、早朝に雨がワッと降って、気温が下がるようになった。むしろ5月の方が暑かったくらいに感じるのは僕だけだろうか。

雨でフロントガラスを打ち付けられ、川のようになった道路をタクシーでかき分けながら、なんとかラワルピンディのDaewoo Bus Terminalへ着いた(タクシーのドライバーの発音を聞くと、「ダイウ・バス」というよりも「デーオー・バス」と聞こえる)。予約していたチケットの支払いをして、6時発のバスを待っていた。雨は次第に上がって、空が段々明るくなってきた。僕はこれから始まる旅に希望を膨らませていた。

e0016654_2015119.jpg

↑Daewooバス停から見る空模様。早朝に雨がワッと降って、30分くらいで止んだ。

バスは予定通り、きっちり6時に出発した。Daewooバスはなかなか快適だ。まず、日本ではもう珍しいバス・ガイドさんが添乗してくれる。途中何かを説明してくれるわけではないが、ミネラル・ウォーターとコーラを適宜注いでくれるし、車中で食べるようにとポテトチップスとクッキーの詰め合わせを配ってくれる。社内はクーラーも聞いてるし、皆で見られるTVモニターもあり、最初にヘッドフォンも配られるのだ。まるで飛行機みたいなサービスで僕は満足だった。行きは少し豪華なPremium Plusで840ルピー(約14ドル)、帰りは普通で600ルピー(約10ドル)だった。極端なことを言えば、両方600ルピーのバスに乗れば合計1200ルピー(約20ドル)でラホール日帰り旅行は可能なわけだから、かなり安い。

イスラマバード~ラホール間は約300キロあるので、4時間半バスに揺られていた。疲れた。バスを降りてから、すぐさま同じ日の夕方6時のラワルピンディ行きの帰り便チケットを購入した。カウンターの若いお兄さんが、「君、どこから来たの?」と聞いてきて、「ジャパン」と答えると、「Japan is a good country」ということになり、すぐに友達になった。お兄さんは僕と同じくらいの年恰好で、日本に好意を持っているようだった。名前はHassanと言う。何か困った事があれば電話してくれよ、ということで自分の携帯電話の番号まで教えてくれた。ありがとう。今自分がどこにいるのかよくわからなかったけど、人に大通りの名前を聞いてLonely Planetの地図と見比べながら、大体ラホールの街の東端の方角にいるらしいことがわかった。タクシーを捕まえて、取り合えず絶対に行こうと思っていたバードシャーヒー・モスクとラホール・フォートに向かった。

バードシャーヒー・モスクの衝撃
ラホール・フォートという城塞がラホールにはあって、そこの周辺はOld cityと呼ばれる古い街並みが垣間見れる地域だ。ラホール・フォートは1526年~1858年に栄えたムガール帝国の遺物で、第3代皇帝アクバルによって建築され、その後、破壊と修復を繰り返し現在に至っている。そのフォートに隣接して、バードシャーヒー・モスクというモスクがある。そのモスクが美しいと聞いていたので、僕は今回の旅行ではそこを中心としてプランを考えていた。

ラホール・フォートの入り口で200ルピー払ってタクシーを降りて、モスクの方角へ向かった。モスクの四隅に据えつけられたミナレットや、モスクの外壁にある大きな門が目に入る。否が応でも気分が盛り上がってくる。モスクへ通じる門のところで靴を脱いで門番に預けて裸足になってから、中へ向かった。門をくぐる途中、暗がりの中からモスクの方角を見やると、白いドームと赤いレンガで出来た大きなモスクがぼんやりと目の前に現れた。ドーム型をした門の輪郭に切り抜かれたバドシャヒ・モスクは、荘厳で雄大で美しかった。

e0016654_2021561.jpg

↑門の中からバードシャーヒー・モスクを望む。

e0016654_2022866.jpg

↑バードシャーヒー・モスクの中庭で記念撮影(・・・筆者がブログに登場することは今後ありません、多分)。

ガイドさんが「俺が案内するよ」と営業をかけてきたので、一人の若いガイドさんにお願いすることにした。彼の名前はAsifと言って24歳の好青年だ。彼はウルドゥー語、英語にはじまり、英語だけでもアメリカ訛り・アイリッシュ訛り・マンチェスター訛り、オーストラリア訛り・コックニーの5種類を使いわけ、加えて、ペルシャ語、ダリ語、パシュトゥー語、アラビア語、フランス語など20種類以上の言葉を話すという事だった。もちろん、パキスタン国内の少数民族の言葉も話すのだという。語学は才能ということを聞いた事があるが、彼と話すとそれを痛感する。

このモスクはムガール帝国第6代皇帝のアウラングゼーブ・アラム・ギールが建築したらしく、最大で10万人が礼拝できるように設計されているという。建物が赤く見えるのは、インドから運んできたRed Sand Stoneを使用している為ということなので、この辺りは当時のムガール帝国の地域だったということを実感する。イランのイスファハンで見たイマム・モスクは青が綺麗だったけど、このモスクはRed Sand Stoneの赤が綺麗だ。Asifの案内で、モスクの中を歩いて見て回った。

e0016654_2024310.jpg

↑バードシャーヒー・モスクの入り口。

e0016654_2025479.jpg

↑天井が高くて、中には空間がある。

e0016654_203762.jpg

↑ドームの先端は、上からシーク、ヒンドゥ、仏教、イスラムを表しており、他民族融和の象徴なんだとAsifは説明してくれた。しかし、後で調べてみると第6代皇帝アウラングゼーブは、他宗教に対して弾圧をした指導者として有名だと書いてあった。Asifの言っていたことはどこまで本当だったのだろう。

Asifはこのモスクについて相当勉強をしているらしく、色々なことを説明してくれた。中でも面白かったのは、天然のエコー効果とマイクロフォン効果だ。モスクの中のホールで、2人の人間がお互いに対角線上になり、壁に向かって話しかけると、小さい声で喋っていてもホール全体に反響して、まるでマイクで喋ったように音が大きくなるのであった。他にも、ここに立って大きな声をだしてごらん、と言われてそうしてみると、声にエコーがかかるように聞こえるポイントがいくつかあった。

神と垂直的な関係で成り立っているイスラム教徒にとって、モスクは神への絶対的服従を誓う神聖な場所だ。神への服従を誓う場所であるからこそ、そこには神が作り出した規則(それは数学とか天文学とか哲学とかに細分化されていくのだろうけど)だと信じられていたものの断片が至るところで見られる。バードシャーヒー・モスクは、僕の目には完璧な左右対称に見えた。これだけの建築物を作るのだから、数学や建築学は相当発達していたのだろうなぁ。ひょっとしたら、色々と測ってみたら、ある部分とある部分に黄金比率が使われていたり、こことここを割ると円周率になる、とかそんな秘密が隠されているかもしれない。

そんな真理を追い求める場所だからこそ、モスクを写真に収める際にはど真ん中に立って、真正面から左右対称に撮影しなければならないような気がした。実際、正面から撮影すると一番綺麗に取れるのである。しかし、僕はそれをすることに対して抵抗があった。どうしても真正面からではなくて、斜めからとか、あるいは、他の人があまり取らないような形で撮影したいという気持ちが拭えなかった。それは、予定調和に陥りたくないという僕の性向かもしれないし、既にあるものを破壊して新しいものを創造していきたいと思うからかもしれない。

しかし、僕は思うのだが、キリスト教世界では、宗教改革を経てからキリスト教の権威の失墜が起こり価値観が多様化したという歴史がある。1517年のルターの宗教改革を一つの指標にすれば、キリスト教が誕生してから1517年後のことである。哲学の世界で言えば、ヘーゲルが近代理性主義の一つの終焉に到達して、その後は、それまでに積み上げたものを否定する方向が新しく生まれた。ニーチェからフーコー、そして、ポストモダン思想につながる流れというのは、これまであったものを越えようという意志から生まれたものだと言えないだろうか。

もし、そうだとすればキリスト教と同じようにイスラム経世界でも、ヒジュラ(聖遷)から1500年後くらいに宗教改革が起こり、価値観が多様化する時代がくるかもしれない。価値観の多様化、つまり神の否定による「絶対的価値の否定」と「相対的価値の誕生」である。そうなった時には、このバードシャーヒー・モスクも、ロンドンのトラファルガー・スクエアにあるナショナル・ギャラリーに飾られているキリスト教の宗教画のように、過去の栄光としてのパースペクティブを与えられることになるかもしれない。そして、その時には、斜めに写真を撮る事の本当の意味が広く共有されることになるかもしれない。

(後編につづく)
[PR]

# by aokikenta | 2008-06-25 20:28 | 隣接国探索②漂流パキスタン編
2008年 06月 25日
炸裂ラホール (後編)
(前編からつづく)

ラホール・フォートとOld cityとミナレ・パキスタン
バードシャーヒー・モスクを見終わってから、Asifと一緒に、門の外にあるカフェでチャイを飲んで休憩した。ガイド料を払うよ、と言ったら、「僕はお金が欲しくてやってるわけじゃないんだ、これからもいい関係でいられたら嬉しいから。だから、ガイド料は君次第だ(up to you)」と言われてしまった。up to you・・・。As you wishに次いで、よく耳にする言葉だ。それでも、demandingな態度を示されるよりもいいかと思い、300ルピー(約5ドル)渡して、僕はラホール・フォートに向かうことにした。

ラホール・フィートとバードシャーヒー・モスクは隣接している。少し歩いてから、入り口で200ルピー(約3ドル)払って、ラホール・フォートを見学することにした。ラホール・フォートは元々城塞だった場所で、すぐ傍には昔は川が流れていたらしい。川があれば天然の要塞になるわけだから、それは利口な考えだ。しかし、今では川の流れが変わってしまい、近くに川は流れていない。赤いレンガで囲まれた敷地をぶらぶらと歩いて散歩を楽しんだ。緑色が綺麗な芝生が広がっていて、家族連れのパキスタン人が、雨が降った後の涼しい天気を楽しんでいた。パキスタンでは、いい天気とは晴れのことではなく、気温が低い天気のことを指す。

e0016654_23173126.jpg

↑ラホール・フォートの壁。道が広いのは象が通れるようにという配慮らしい。

e0016654_23174785.jpg

↑ラホール・フォートの中にあったキラキラ輝く建物の内部。

e0016654_2318172.jpg

↑内部の壁。この青色はアフガニスタンで採れたラピスラズリの青に違いない。

e0016654_23181753.jpg

↑ラホール・フォート内部からのぞむバードシャーヒー・モスク(右)とその門(左)。

e0016654_23183353.jpg

↑ラホール・フォート内部の階段。一段一段が浅く設計されているのは、象や馬が通れるようにということらしい。

ラホール・フォートを歩いていると、「写真を撮っていいですか?」という質問をよく受けた。最初、「シャッターを押してください」ということかと思って快く応じたのだが、どうも、お願いをしてきた人が横に立ち、その友達が写真を撮ろうとするので、実は「僕と一緒に写真に入って下さい」という意味だということに気がついた。わしは芸能人か、と思いつつ、笑顔で写真に納まった。僕は彼のアルバムの中で生き続けるわけだ。そう考えるとある意味すごい。しかも、お願いをされたのはこの日だけで一回だけではなく三回あった。パキスタン人にとっては外国人は相当珍しいのだろうか。そういえば、道を歩いているとやたらと声を掛けられたし、僕が現地人しか行かないようなバザールを歩いていると、その通りの空気を一変させてしまっているような錯覚に陥った。あるいは、僕は自意識過剰かもしれない。しかし、僕がそこに存在していることで明らかに周りの空気を変えている事は確かであった。「こちらアルファ。ロミオ、この道に侵入者あり、要注意、オーバー」とか「了解、ロミオ追跡します、オーバー」とか言いながら、通りの端々で現地人が無線で交信し合って逐一僕の行動をチェックしていたと言われたとしても、僕はさして驚かなかっただろう。

バス停を午前11時頃出てから、バードシャーヒー・モスクとラホール・フォートを見学し終わった時点で、午後2時くらいになっていた。お昼ご飯を食べようと思って、すぐ近くにあるOld cityへ歩いていくことにした。

Old cityは壁で囲まれた旧市街地だ。外界と切り離す為の壁が張り巡らされているが、お互いの世界を行き来する為に門が12個ある。バス停からバドシャヒ・モスクに来る際に門を3つか4つ見かけたので、大体方角がわかるから歩いてどこか一つの門へ行こう、と思い地図もよく見ないで歩き始めた。歩き始めたはいいのだが、いくら歩いても門が見つからない。デコレーションされたトラックとバスと、オートリキシャーと、荷物を運ぶ馬車や牛車が道路をひっきりなしに往来し、そこを無秩序に人々が横断をしている。バスのパパパパパパッという甲高いホーンの音が聴覚を刺激し、排気ガス規制をクリアしていないであろうリキシャーの排気ガスの匂いを吸い込み嗅覚をやられながら、ひたすら歩き続けた。しかし、結局、僕は道がわからずに迷子になってしまった。悩んでもどこへ向かっていいかわからないし、お腹がすいていたので、取り合えず、腹が減っては戦はできぬ、ということで道端にあるレストランでお昼ご飯を食べて、作戦を練る計画に変更した。

e0016654_23185236.jpg

↑Old cityのバザールの様子。車やバイクが数センチ横を走っていく。

e0016654_2319532.jpg

↑バザールの様子。真ん中あたりに見えるのは、よくみかける変電装置だ。

ラホールでは、お昼にボーンレス・チキン・ハンディというチキンカレーみたいな料理を食べようと考えていた。それをビリヤーニの上に乗せて、ヨーグルトをかけてから、お皿の上でぐるぐるかき混ぜて一気に食べようと企んでいたのである。しかし、完全に迷ってしまっていて30分くらい歩いて疲れていたので、もうどうでもいいやという気分になって、そこら辺にある食堂に入ることにした。そこは本当に地元の人しか来ないような食堂だったので、「この東洋人は何者だ?」という視線を痛いほど浴びながらご飯を食べる事になった(まぁ、それは食事中に限らないけど)。僕は、野菜のカレーとチャパティーとコーラを頼んだ。しかし、アルミのお皿に乗って出されてきた野菜のカレーのボリュームが少ないので、チキンカレーを追加した。通常の二人前にあたるのだろうけど、140ルピー(2ドルちょい)だった。

e0016654_23192660.jpg

↑お昼を食べた食堂。野菜のカレー、チキンのカレー、チャパティー2枚、コーラを頼んだ。

カレーをよそう係りの人に頼んで写真を数枚撮らせてもらってから、ワズィル・ハーン・モスクへの行き方を教えてください、と質問をした。実は、食事の後、Lonely Planetの小さな地図を見ながら立てた作戦というのは、とにかく一番近くのゲートに向かうことだった。ゲートまで出れば、地図に載っているし大体の方向感覚が掴めるはずだ。そして、その質問をしたワズィル・ハーン・モスクというのはデリー・ゲートという門のすぐ傍にあるモスクなのである。だから、そのモスクまで行けば、デリー・ゲートに着く事ができるはずであり、ゲートまで到着できれば、old cityを囲う城壁に沿いながら散歩が楽しめるはずだ。

「ここを真っ直ぐ行って右に曲がり、ずっと真っ直ぐ行くとあるよ」

と彼が言うので、それに従って歩いていくと、綺麗なモスクが現れた。しかし、パキスタンではよく見かける規模のモスクだったので、さして時間をかけずに奥に見えたゲートまで進んだ。道端のお店のおじさんに「このゲートの名前は何?」と聞いたら、「デリー・ゲートだよ」と返事が返ってきた。地図でデリー・ゲートを確認した。ラホール・フォートに近い場所にあるゲートである。やっぱり僕の作戦は成功だった。うんうん。

e0016654_23194231.jpg

↑デリー・ゲートを外から撮影。こういうゲートがold cityには12個ある

デリー・ゲートの所で水を飲んで少し休憩をした。これから、どこへ行こうかと悩んでいた。時間はもう既に午後4時頃を指していた。帰りのバスは午後6時で予約をしていたので、もう2時間しかない。ラホールには他にもラホール博物館や大きな庭園など、見るべきものが沢山あるのだが、元々の計画がラホール・フォートとバードシャーヒー・モスクを見る事だったし、時間もないので、城壁に沿ってold cityを散歩することにした。写真を撮りながら、街を歩いたら気分がいいだろう。そう思って、デリー・ゲートを出てから右に曲がって歩き始めた。

しかし・・・、しかしなのである。いくら歩いても次のゲートが見えてこない。見えるのは、オートリキシャーと、こぶ牛が引っ張る荷車ばかりで、肝心の赤い壁と古い門が見えてこないのであった。20分くらいあるいても見えないので、僕は更に計画を変更することにした。歩いていても埒が明かないので、リキシャーを捕まえて、ミナレ・パキスタンという新しい観光名所みたいな場所へ行き、そこで時間を調整してからバス停に戻ろうと決めた。僕は、青い色をしたリキシャーに「ミナレ・パキスタン」と告げ、60ルピー(約1ドル)という値段を確認してから、リキシャーに乗り込んだ。パキスタンでオート3輪車に乗るのは、これが始めてだった。

e0016654_23195850.jpg

↑リキシャーの中からラホールの街をのぞむ。中は案外快適。ドライバーの車両感覚は、日本人よりも鋭い。

e0016654_23201173.jpg

↑道端を走るデコレーションされたバス。

e0016654_23202436.jpg

↑装飾されたバス。何故か、僕は、パキスタンの派手なバスを見ると「死」を連想してしまう。

e0016654_232041100.jpg

↑馬車。ラホールでは、街中でも人間と動物が共存している。

ミナレ・パキスタンは、ラホールにある他の名所に比べると新しく、平たく言えば、コンクリートで出来たさほど高くない塔だ。塔の足元には1940年のラホール決議の碑文が刻まれているということで、パキスタン建国の象徴的な場所であるらしい。パキスタンが独立したのが1947年なので、パキスタンの名所と言うと、どうやったって新しいものになってしまうのは否めない。

e0016654_23205624.jpg

↑ミナレ・パキスタン。足元には、1940年のラホール決議(パキスタンの分離を認めた決議)の碑文が刻まれている。

ミナレ・パキスタンで写真を数枚撮ってから、芝生に座っていたら、僕を珍しいと思ったのか、3人のパキスタン人が僕の近くに寄って来た。親子ともう一人はその子供の友達という関係らしい。ウルドゥー語で何かを話しかけてくるが、全然わからない。英語でこちらから話しかけても全然通じない。ふと思い出して、鞄から「旅の指差し会話帳 ウルドゥー語版」を取り出した。それを見せたら、大分円滑にコミュニケーションが図れたような気がする。「旅の指差し会話帳」があったからいいものの、しばらくは言葉が通じない苦しみというのを久しぶりに痛感した瞬間だった。何を言おうとしても、知らないからもうお手上げなのである。でも、「ノーメ・チ・アスト?(名前は何?)」とダリ語で言ったら、しっかり名前が帰ってきた。ウルドゥー語では「名前」を「ナーム」というらしいことを後で知った。

30分くらい芝生の上で、「旅の指差し会話帳」を挟んで会話をしてから、僕はおじさん達3人組に別れを告げた。そして、バードシャーヒー・モスクの入り口付近まで歩いていって、リキシャーを捕まえた。130ルピーで合意して、僕はリキシャーに乗り込んだ。後は、バスに乗って帰るだけだ、と思うととても安心した気持ちになった。中からラホールの街並みを眺めていると、リキシャーのドライバーが「どこから来たの?」と聞く。「日本だよ」と応えると、「Japan Good!」という返事が返ってきた。聞いてるととにかく、パキスタンで走っている車は日本製ばかりだし、スペアパーツの品質も高いから日本が好きなのだという。

バス停に向かう途中で、ドライバーがリキシャーを止めてお店に入っていった。何だろうと思って途方にくれていると、彼は、アイスクリームを2本持って帰ってきた。1本は僕にくれるのだという。衛生的な問題は横においておいて、僕はその気持ちをありがたく受け取り、「シュクリア」と答えた(実は、リキシャーの後部座席に座りながら、これを食べるべきか食べないべきかと、僕は葛藤していた。この状況下で[つまり、アイスクリームを買ってくれたドライバーが運転するリキシャーに同乗していて、彼の目が届く場所にいるという状況で]アイスクリームを食べないで窓から捨てるというオプションも物理的にはあるのだろうが、現実社会ではほぼ選択できないオプションだ。結局、僕はそのローカル風のアイスクリームを全部食べきった。そして、僕はその日の晩から数日に渡って激しい腹痛に苦しめられる事になった)。

夕方5時半にバス停に着いた。イスラマバードから到着したバス停と同じ場所である。携帯電話番号を教えてくれたHassanに挨拶に行ったが、シフトが変わってしまったのか、彼は元の席にはいなかった。挨拶ができずに残念だった。僕は、6時前にラワルピンディ行きのバスに乗り込んだ。バスは予定通り、6時丁度に、ラワルピンディに向けて出発した。

エピローグ
炸裂してやりたかった。
ぶち壊してやりたかった。

絶望/希望、日常/非日常(祝祭)、創造/破壊、停滞/躍動・・・。
暗闇を引き裂きたかったし、日常を切り裂きたかった。
停滞ムードを破壊したかったし、あらゆる物を越えたかった。

朝5時に出発して深夜12時に終わったバス日帰りラホール旅行は、
単なる観光旅行というラベルを超えられなかったかもしれない。
でも、僕にとっては、それはいつまでも鮮やかな印象を記憶に残す旅だった。
そう、まるでユベントス戦で中田英寿が取った「あの2点」のように、
とても鮮烈な時間だった。僕はそれだけは自信を持って言える。

ラホールからイスラマバードへ向かう帰りのバスに揺られながら、
僕は、その日の朝に起こった出来事が同じ日に起こった出来事だとは信じられないでいた。
西の空に光る雷も、ゴロゴロとなる雷鳴も、フロントガラスを打ち付ける雨も、
アスファルトに出来た濁流も、そのどれもが遠い昔に起こった出来事、
あるいは、実際の世界で起こった出来事ではないような気がしていた。

写真のデータをパソコンに移して、午前2時頃、布団に入った。
バスの余韻を感じながら、体がいつまでもそっと揺れていた。

e0016654_2321139.jpg

↑バードシャーヒー・モスクが見守るラホールの街。

(おしまい)

※この記事は、筆者が2008年6月20日に、イスラマバードからラホールを訪れた時の記録です。
※「更新」ボタンをクリックしたら、「内容が多すぎますので、2374文字減らした後、もう一度行ってください」と表示されたので、2回に分割しました。本当は一回で炸裂したかったのに・・・、エキサイトのバカ。
[PR]

# by aokikenta | 2008-06-25 19:28 | 隣接国探索②漂流パキスタン編
2008年 06月 16日
構造主義栄養学・・・
土曜日は、昼まで寝ていた。前日歩き疲れたこともあったし、何より起きなければいけない用事というものがなかったので、とにかく寝たいだけ寝ることにしたのだ。寝たいだけ寝られるというのは、多くの状況において幸せなことである。起きてからメールをチェックしてから、近くの食堂に行って、ナンとダールを食べて、マンゴージュースを締めに飲んだ。パキスタンのフルコースメニュー。パキスタンでしか容易に味わえないことを考えると、これもなかなか幸せな組み合わせである。

最近、パキスタンの食事をしながら、「構造主義栄養学」という学問は出来ないものかと考えたりする。よく日本人や欧米人と話していると、パキスタンの料理に対する不満を耳にする。油が多い、どれも味が煮ている、なんであんなものを食べているのか理解できない、etc。確かに毎日食べていると飽きるのは事実である。しかし、それはどの国の料理を食べていても同じことではないだろうか。また、パキスタンの朝食の定番パラサ(小麦粉をこねた物を油で焼く料理)を食して、なんでこんなに油を使うんだろう、きっとパキスタン人は味がわからないに違いない、というようなことを聞く事もある。しかし、果たしてそれは事実なのだろうか?

スイス出身のソシュールという言語学者がいる。彼は、構造主義に大きな影響を与えた人だが、彼の大きな業績は「シーニュ(記号)=シニフィアン(記号を形作る音のイメージ)+シニフィエ(記号の意味内容)」という公式を打ち出したことにある。言葉には二つの側面がある。一つは、それが「mizu」という音によって出来ている側面。もう一つは、水が表す意味という側面。彼は、前者をシニフィアン、後者をシニフィエと呼んだ。また、彼は言語というのは他の物との対立でしか表せないという事も発見した。例えば、「あ」という音がどういう音か、説明することは出来ない。それは「い」でも「う」でも「え」でも「お」でもなく、その他のどの音でもないという差異でしか説明できないのである。彼の理論を引き継いで、プラーグ学派という人達は音韻論という学問を発達させた。音というのは、「音素」に分類させることができるとして、音韻論は大きく発展した。

この「音素」を「栄養素」に変換してみたら、どうなるだろう?パキスタンの朝ごはん、例えば、パラサとダール・チャンナを想定したとする。パラサは大きく分けて、炭水化物と脂質という栄養素に分解することができるだろう。また、ダール・チャンナは蛋白質とビタミン類に分類できるに違いない。もう一方で、イギリスの典型的な食事、トーストとビーンズとソーセージはどうだろう?トーストは炭水化物、ビーンズは蛋白質とビタミン類、ソーセージは蛋白質と脂質に分解できるだろう。日本の食事、白米と鮭の塩焼きと漬物はどうだろう?白米は炭水化物、鮭は蛋白質、漬物は食物繊維とビタミン類に分類できるだろう。

ひょっとして、これは直感だが、世界の食事というのはこういう風に栄養素で分解したら、ほとんど三大栄養素の炭水化物、蛋白質、脂質に分解できるのではないだろうか。そしてまた、一食の総カロリーを計算したら、大抵同じカロリー値が導き出されるのではないだろうか。おそらく、ちゃんと比較をしてみたら多少のズレはあるだろう。しかし、そのズレは、カロリー値が多すぎる場合は寒冷地あるいは熱帯という特殊な環境の為に、他の地域よりもカロリーを多く必要とするという理由があるからと説明できる。少ない地域の場合、朝食での比較では少ないが、一日の総量としてみれば、昼食と夕食のカロリー値が多くて、補完し合っているのかもしれない。

僕がなんでこんなことを書くかというと、もし構造主義栄養学なるものが出来るとすれば、パキスタンは「未開」社会だからパキスタン人はこんなものを食べているのだ、とか、アフリカは未開社会だから油のどっぷり入ったものばかり食べているんだ、というような偏見や固定観念を覆すことができるのではないだろうか、と思うからだ。自民族優位主義というのはどこの社会にもあると思うが、よく見てみると、劣っていると思われる社会にもその制度を維持する為の理由があるのではないだろうか。もし、比較方法論によって、異なる社会の食事における共通の栄養構造が抽出できれば、新たな視点が得られるのではないかと思う。

しっかり調べもしないで書いているので、僕は間違えているかもしれないけど、「郷に入れば郷に従え」という諺があるように、「全く理解できない」事柄の中にも必ず何らかの意味が横たわっているのではないだろうかという確信はある。

土曜の午後は、サッカー部の練習に参加して、そのまま中華料理屋で開かれた新入部員歓迎会に参加してきた。日曜の今日はずっと仕事をしていた。夜に食べたチキン・ニハリが美味しかった。

e0016654_0535278.jpg

↑チキン・ニハリ。辛くておいしい。左にあるのはチャパティー。奥にある生姜とパクチーとレモンと青唐辛子で、味を調節できる。
[PR]

# by aokikenta | 2008-06-16 00:58 | 日記(イスラマバード)