「ほっ」と。キャンペーン
2008年 08月 11日
ピュシス (Physis)
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# by aokikenta | 2008-08-11 03:27 | 日記(イスラマバード)
2008年 08月 09日
行き止まり (closed end)
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# by aokikenta | 2008-08-09 01:15 | 日記(イスラマバード)
2008年 08月 05日
破綻について振り返る
日常にある裂け目から切り込んでから、自分の物語とアフガニスタンの歴史という二つの物語へと深く深く入り込んで行き、当初は二つの物語がきっちりと交互に入れ替わっているのだが、次第には境界線がぼやけていってしまいどちらがどちらの話かよくわからなくなり、最後にはwayoutが全く見つからない一方通行行き止まりみたいな物語をやりたかったのだがあまり上手くいかなかった。もうどうしようもないくらい破綻していってしまう救いようのないエンディングは個人的に格好いいと思ったのだが、自分の人生を破綻させたくないし(破綻すると思ってないし!)、それではアフガニスタンにとってもあまりにもぺジミスティックなので、明るくもなく暗くもないエンディングになった。一歩を踏み出すということで、二つの物語がどんどん上向きに再生していくといいなという希望を示唆したつもりだが、どうなることやら。そもそも、その一歩が前への一歩なのか後ろへの一歩なのかということすら、誰にもわからないというものを。いうものをー。切なさ。
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# by aokikenta | 2008-08-05 01:13 | 日記(イスラマバード)
2008年 08月 04日
断章4
どちらがいいことなのかよくわからないが、タリバンを排除した格好で、新生アフガニスタンはスタートした。
2001年12月のボン合意により、暫定政権の発足→緊急ロヤジルガの開催→移行政権の設立→
憲法制定ロヤジルガ→正式政権の発足というような流れで、新しい国家樹立の道へ向けて歩き始めた。
カルザイ大統領を中心として、ナジブラー政権崩壊後、アフガン国内を混沌に陥れた
北部同盟の軍閥を政府の重要なポストに招きいれ、タリバンを掃討する覚悟でもって、
アフガニスタンは歩き始めたのだ。

そこには妥協点はない。
元々、タリバンがアフガニスタンのほぼ全土を掌握していたとしても、パシュトゥン人のアイデンティティーを
接着剤にして強力な団結力を持っていたとしても、そんなことは関係なく、ビンラディンをかくまっていた
悪者なのだとして、徹底的にやっつける方向で歩き始めたのだ。

当初、アフガニスタン中央政府を安定させる為だとして、
国軍の整備はアメリカ、
警察の強化はドイツ、
DDRは日本、
司法改革はイタリア、
麻薬対策はイギリス、
という役割を先進国間で割り振った。
DDRではムジャヒディン軍閥を中心に武装解除を行い、それによって生まれるpower vacuumは、
アフガン国軍とアフガン警察が埋めるという計画で話しは進んでいたのだ。

この計画が上手くいかなかったのは、軍と警察の整備が遅れているからだという意見がある。
しかし、この計画が例え上手くいったとしても、先進国からの支援によってのみ存在し得ている
アフガニスタン中央政府によって抑圧されたタリバンや反政府勢力の恨みや抑圧の感情
というのは、何処へ行ってしまうのだろうか?無理やり押し込められたという感情は、世代を超えて
民族の歴史として受け継がれていき、終わりのない抵抗を生み出すだけではないのだろうか?
そうだとしたら、アフガニスタンは完全に終わりの見えない泥沼に入り込んでしまったことになりはしないだろうか。

もちろん、だからタリバンをincludeした形で政権を作っていればよかったのだ、という結論を導くつもりはない。
もう既に、現代世界において幅広く「良い」と信じられるイデオロギーでもって、最初の第一歩は踏み出されてしまったのだ。
それは、ある集団から見れば「悪い」ことかもしれないし、ある集団から見れば外部者の押し付けに過ぎないかもしれない。
しかし、僕らは、その既に始められてしまったことの肩の上で、事態を改善していけるように努めなければ
ならないのではないかと思う。それが具体的にどういう方策でなのかはまだわからない。
どのような立場であっても、完全に中立、完全に相対的であることはないと思う。
でも、何が良い方向なのかということを、現実と理想の間で追い求めていかなければいけないと思う。

僕が赴任したのが2005年11月で、赴任してから1ヵ月後に32年ぶりという国会が開かれた。
あの時から、正式政権が発足して新生アフガニスタンはスタートしたのであった。
破綻か再生か、そんな簡単な二元論で語れるとは思わない。
ただ、アフガニスタンの事を自分自身の姿と重ね合わせながら、ずっと見ていたい。
・・・結論は持ち越しみたいだ。
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# by aokikenta | 2008-08-04 03:05 | 日記(イスラマバード)
2008年 08月 02日
回顧4
停滞ムードを変えたくて、近くてもいいから、まだ行った事のない場所を散策しようと思った。
車での移動もいいけど、自分の足でゆっくり歩いたら、車では見えないものがよく見えるのではないかと思った。
そんなこんなで、イスラマバードの街中や、ラワルピンディのサダル・バザールやラジャ・バザール、
ラホールのオールド・シティーなど、週末に時間がある時に歩くようにした。

暗い地下の事務所で仕事をして、東側に向いた1階にある自分の部屋で本を読んでいると、
自然と陰鬱とした気分になったし、このままではメンタルブレイクダウンを起こすのではないかと思っていた。
知らない場所をプラプラ歩くことは、僕の気分を変えてくれたし、軽い運動をするとよく眠れた。
自分が面白いと思ったものにカメラを向けて撮影したり、偶然に知り合ったパキスタン人と会話をしたり、
市井の人々の暮らしを観察していたりすると、自然と気持ちが晴れてくるような気がした。

そういう意味で、僕は、「歩こう」という「最初の一歩」を踏み出してよかったと思った。
その「最初の一歩」はフィジカルに最初に一歩でもあるし、不可視の世界での最初の一歩でもあったのだ。

step forward。

一歩を踏み出す、step forward、一歩、step、一歩を踏み出せ、Step forward・・・・・
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# by aokikenta | 2008-08-02 14:24 | 日記(イスラマバード)
2008年 07月 31日
断章3
1950年~60年代に、アフリカ系アメリカ人の公民権運動がアメリカで盛り上がりを見せた。
アメリカでは1862年の南北戦争により奴隷制の撤廃は実現していたものの、1950年代当時の
アメリカ、特に南部では、黒人差別は依然として生活の至るところで幅広く根付いていた。

バスなどの公共施設では、白人専用席と黒人専用席が区別されているのが一般的だったし、
雇用でも黒人が圧倒的に不利な立場に立たされるのが常識となっていた。
そうした中、キング牧師を中心として公民権運動が盛り上がり、ケネディ大統領や
リンドン・ジョンソン大統領の力で公民権法が成立、ついに法律上、アメリカで黒人差別が撤廃された。

人間は戦争をするものだ。
人間は差別をする生き物なのだ。
僕が平和学を勉強していたと言うと、面白がってそういう挑戦的なことを言ってくる人がたまにいる。
人類の歴史は戦いの歴史だ。猿だってハイアラーキーを作り、仲間へのいじめをする。
上のような言葉は、元々人間というのは生物学的にそういうものなのだから
僕達が努力してもしょうがないよ、という諦めに似た感情に基づいていると思う。
人間も動物だから、戦いや差別をする生き物だというのはその通りだ。
しかし、果たしてそれは努力しても克服されない種類の物事なのだろうか?
そしてまた、克服されないままでよしとするべき種類の物事なのだろうか?

基本的人権も民主主義も、西欧から生まれた。
だから、それらが良いか悪いかというのは西欧的価値観に基づいたものであって普遍的(universal)なものではない。
実際に、人権や民主主義への批判はイスラム世界や、アジア世界などから発せられている。
そもそも人権に存在論的根拠(ontological ground)を与えることはできないと思う。

しかし、それらが普遍的なものではないからといって、個別的に適用できないわけではないと思う。
アメリカの公民権運動を見た場合に、彼らが勝ち取ったものは意味のないものだったと言えるだろうか?
公民権運動以前に、黒人が置かれていた状況を仕方のないことだと言えるだろうか?
僕は、決してそうは言えないと思う。

そうだとすると、人権や民主主義をどう捉えるかというのは自分の「立場」一つだということではないか。
Universalに「良い」とは言えないもの、それを「良い」か「悪い」か考えるのであれば、
それを考える自分自身がそのどちらかに「軸足」を置かなければならない。
自分の立場を決めなければならない。
相対的でい続けることもできるかもしれない。
しかし、相対的でいるままでは物事を解決へは導けない。
僕らは現実の世界で生きていて、現実の世界を動かすには指針となるものが必要だ。
僕らはどこからか何かを始めなければいけないのではないだろうか。

僕は、公民権運動以前の黒人が置かれていた状況を仕方のないことだとは言えない、と書いた。
それをアフガニスタンに適用するとどうなる?
例えば、タリバンによる”人権侵害”は、歴史的流れから見ると仕方のないことだと言えるだろうか。
現地の事は現地の人たちが時間をかけて解決するしかない。
それは正しくその通りで、現地の人が発信した変化でなければそれは意味がないかもしれない。
アフガニスタン発ではない復興援助政策を推し進めたところで、外部者のエゴに過ぎないのかもしれない。
しかし、僕らが人道的に見てあまりにも酷いと思うこと、人倫に悖(もと)るとおもうことを止めさせて、
どちらに向かうべきかという方向性を示すこと、そして外部から手を差し伸べることは、
きっと無駄なことではないはずだ
(自分自身の置く軸足の位置によって、「あまりにも酷い」とか「反人道的だ」いう判断基準の
ラインに多かれ少なかれ違いが出るだろうけれど)。

「I have a dream」

とキング牧師は言った。
新生アフガニスタンが、タリバンによって転覆させられて破綻してしまうという物語。
新生アフガニスタンが、反政府勢力を押さえ込んで、法による支配を実現した国家を樹立するという夢。
50年後の紛争解決論の講義ではどちらのケーススタディーが教えられているだろうか、と考えてみる。
破綻/再生していく未来の自分と、アフガニスタンの未来の姿をオーバーラップさせながら。
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# by aokikenta | 2008-07-31 00:26 | 日記(イスラマバード)
2008年 07月 30日
回顧3
アフガニスタンで、プロジェクト開始や完了のセレモニーをした時に、
来賓のアフガニスタン人が必ず言ってくれたのは、

「日本の支援は真に人道的(purely humanitarian)だ。
 本当にアフガニスタンの事を考えて我々を助けてくれる。」

というものだった。
当時、その言葉を聞くと誇らしい気持ちになったし、これまでに日本が築き上げて来た
ソフトパワーの強大さと、アフガニスタンには親日家が多いという事実を思い知ったものだった。

しかし同時に、この言葉を聞くと、僕は哀しみを禁じえなかった。
「日本の援助が真に人道的である」とアフガニスタン人が感動をするということ、それは即ち、
「他の国の援助は人道的ではない」、イコール、「他の国は現実主義的な観点でだけ援助をしてきた」ということの裏返しだ。
そう思うと、僕は歴史的にアフガニスタンが果たしてきた役割や、
置かれてきた立場というものについて、哀しみを覚え、そして、思いを馳せることになる。

1979年~89年の、ソ連のアフガン侵攻時代に、東側勢力の伸張を抑えようと、
アメリカやパキスタンやサウジアラビアなどがアフガニスタンのムジャヒディンを支援したのは
もちろんのこと、ソ連が撤退して以降も、隣国や列強国が各々の利益の追求を求めて
アフガニスタン国内で群雄割拠していた軍閥・派閥を何らかの形で支援した。

パキスタンとサウジアラビアはタリバンを支援したし、
1998年に自国の外交官を殺されたイランは、反タリバン勢力で、且つ、歴史的に
つながりの深いシーア派のハザラ人勢力や、言語的につながりの深いタジク人への支援を行った。
アフガニスタンの北辺に隣接するトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタンの
中央アジア諸国も、それぞれのトルクメン、ウズベク、タジク民族への支援を行っていた。
アメリカは冷戦時代はムジャヒディンに巨額の支援を行っていたが、
「テロとの戦い」がはじまるとテロ分子を掃討しようと軍事オペレーションを行っている。
そもそもを振り返ったって、植民地インドでの権益を確保し続けたいイギリスと
ロシアのグレート・ゲームで間に挟まれて緩衝国家としての役割を担わされた。
アフガニスタンは、いつだってそうだ。

アフガニスタンで働いている時、こんな話しを聞いた事がある。
旧ソ連軍が埋めた地雷原の地雷と、ムジャヒディンやタリバンが埋めた地雷原の地雷には違いがある。
旧ソ連軍が埋めた地雷は、一貫して旧ソ連で生産された地雷しかない。
「黒い未亡人」と言われる対人地雷PMNや、PMN2、POMZ-2、OZM-4などだ。
反対に、ムジャヒディンやタリバンが埋めた地雷は、生産国に一貫性がない。
中国製、イラン製、イタリア製、パキスタン製・・・etc。
地雷の生産国は、ムジャヒディン・タリバンへの武器供与国を雄弁に語っている。
埋められた地雷の種類を見れば、背後で誰が武器を供与していたのかが手に取るようにわかるのだ。

アフガニスタンのような農業や麻薬栽培くらいしか主要な産業がなく、
製造業というものが全く発達していない国が、これだけ長い間戦争をすることができる
ということは、戦い続けられるだけの資金と武器を送り込んでいる集団が背後にいるということだ。
世界で覇権を握る為、強国から孤立させられない為、天然資源の権益を確保する為、
戦火が広がるのを自国の領域外で食い止める為。
それぞれの現実主義的な理由があって、アフガニスタンで代理戦争をしてもらった方がいいし、
不安定なままの方がいいと考える国が沢山あるということだ。

アフガニスタンはいつもブルー。
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# by aokikenta | 2008-07-30 14:05 | 日記(イスラマバード)
2008年 07月 29日
断章2
しかし、1994年当時に一部のアフガニスタン民衆がタリバンの快進撃を迎え入れたからといって、
彼らが正義であると断言することは出来ないし、タリバンがその後に行ってきたことを考えれば
その断定は間違いであるとすら言える。
端的に言えば、シャリアを元にした国家を建設するといいながら、実際はムジャヒディンwarlordと
差して変わらない、あるいは、もっと酷い事をしたエビデンスというのはいくらでもある。

タリバンが1997年にハザラジャートにつながる全ての道路を封鎖し、
中央高地に住むハザラ人への全ての援助を妨害した事や、1998年のタリバンによる
ウズベクとハザラの虐殺など、例を挙げれば枚挙に暇がない。

それに、これはよく知られたことであるが、超原理主義であるタリバンが行った
いわゆる「人権侵害(人権という発想自体が西欧から生まれたものなので、それを
侵害したから良いとか悪いとかは判断できないが)」は特筆すべきものだ。
彼らは庭園でフラワーを眺めるくらいのエンターテイメント以外は全て禁じたし、
女性への教育や、女性が男性の同伴なしに外を歩くことすら認めなかった。
Adulteryに耽溺したものをスタジアムで数千人の群集が見守る中、見せしめの為に
石をぶつけて処刑することもあったと言われている。

しかしながら、当時の状況を考えることなしにタリバンを断罪するのは、第二次世界大戦
当時の時代情勢を考慮せずに、現代の尺度で戦争犯罪を裁く様子に似ている。
国民の英雄と担ぎ上げられているアフマド・シャー・マスードだって、1993年~1995年に
カブールでハザラ人を大量に虐殺したし、1997年にはハザラ人がタリバンへの虐殺を行った。

外部からの干渉で言えば、1998年8月にケニアとタンザニアで起こったアメリカ大使館へのテロの直後、
クリントン大統領はスーダンの化学兵器工場とアフガニスタンのテロリスト・トレーニング場と思われる施設めがけて
トマホークミサイルを撃ち込んで報復した。これだって、アメリカからすれば「正義」であるのだろうが、
スーダンとアフガニスタンの「テロリスト」という烙印を押された人々からすれば「悪」としか映らないだろう。

マスードの正義。
ハザラ人の正義。
ウズベク人の正義。
タリバンの正義。
アメリカの正義・・・etc。

ある正義を信じれば、その他の正義は悪になる。
反対に、別の正義を信じれば、その「ある正義」は悪のラベルを貼られる。
結局、正義は一つではないのだ。
外部者の物差しで何が正しいのか、そして何が間違っているのかと言ってみたところで
現地の事は現地の人達が時間をかけて解決するしかないのだ、という結論は至極もっともなものだと思う。
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# by aokikenta | 2008-07-29 01:01 | 日記(イスラマバード)
2008年 07月 28日
回顧2
その年の8月から10月にかけては、イスラマバードに新しく事務所を
設立する為に、カブールとイスラマバードの間を行ったり来たりしていた。
パキスタンに退避することはすんなりと決まったが、実務的な問題は山積みだった。
事務所の選定、銀行口座の開設、NGO登録、車両借り上げ、スタッフの雇用、
ビザの取得、通信網の整備、物資の調達・・・etc。

ソフト面の充実も大きな課題だった。
大体が、組織にも個人にも遠隔操作をした経験がない中でのスタートだった。
オペレーションからアドミニストレーションまで、これまでに蓄積してきた事をベースに
チェック・アンド・バランスの機能を付加したシステムを作る必要があった。
そんな事に没頭している内に、2007年は終わった。

年が明けてから、本格的にイスラマバードに住みはじめることになった。
カブールにいた頃に比べたら格段に暮らしはよくなった。
しかし、僕はストレスがないというストレスを感じながら、
僕は何処へ行きたいのだろうか、と自問自答し続けていた。
大局的な流れというのは、個人の力ではどうしようもないものだ。
それは、グレート・ゲームに翻弄され、ソ連に侵攻され、アメリカからミサイル攻撃をくらった国
アフガニスタンに住む無辜の市民達が感じていたであろう諦めの気持ちに似ている。

緩衝・・・
何かと何かの狭間で・・・?
・・・自分(国家)という領域への侵入・・・
干渉・・・

国家と個人という単位が違うだけで、僕には、アフガニスタンが置かれてきた歴史的状況と
自分自身の置かれている状況というのは、ほんの何かしらのミッシングリンクが見つかりさえすれば
しっかりとコネクトされる関係性を持っているように思えた。

I was stuck in the middle…、僕はカブールと東京の狭間で完全にスタックしていた、と思う。
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# by aokikenta | 2008-07-28 03:09 | 日記(イスラマバード)
2008年 07月 26日
断章1
1992年にナジブラー政権が崩壊して以降、アフガニスタンは
複数の軍閥によって覇権が争われる群雄割拠の時代に突入した。

北部では、ウズベク人のドスタム将軍が6つの州を支配下に置き、パシュトゥン人の
ヘクマティヤールとともにカブールのラバニ政権を共同で攻撃することを約束していた。
中央高地のバーミヤン付近と中央地区の一部では、ハザラ人のアブドゥル・アリ・マザリが
他の民族からの侵略から自分達を守るべくハザラ人をまとめあげていた。
タジク人の英雄、アフマド・シャー・マスードはタジキスタンからの支援を得て、
パンジシール渓谷から北部を中心に、勢力を維持しようと努めていたが、勢力の衰えは否めない。
カンダハールでは、複数のパシュトゥン人軍閥が共存している状況で、
これら全てがLocal contextを全て表しているわけでは到底ない。
もはや、外部の人間では各グループの力の均衡がどうなっているのかわからないほど、
お互いの利益、権力を求めた利害が複雑に錯綜している状況だったのである。

そんな中、パキスタンのアフガニスタン国境沿いにあった難民キャンプの
マドラサで育った神学生を中心としたタリバンが、アフガニスタンの歴史に登場する。

1994年の春、カンダハルのあるコマンダーが2人の十代の少女を連れ去り、ミリタリー・ベースに
連れ込み、繰り返しレイプを行っているとの報告がムッラー・オマルにもたらされた。
ムッラー・オマルは、すぐさま16丁のライフルを持った30人の神学生を選びベースに送り込んだ。
選ばれた神学生達はそのコマンダーを攻撃し、少女を解放、少女を誘拐したコマンダーを
戦車の砲身から首吊りにした。オマルは言った。
「我々はモスリムに対抗するものに対して戦う。女性や貧しい者に対する犯罪にどうして黙っていられようか」(注1)
これは、混沌としたアフガニスタンに突如現れたタリバン、シャリアを元にして
ムハンマドが生きていた時代のメッカやメディナの社会の再現を理想に掲げた神学生集団、
という現象を神話的に語る際に頻繁に持ち出されるようになった象徴的な事件である。

そして、1994年10月のスピンバルダックでのヘクマティヤール軍との戦闘を皮切りに、
1998年までにはタリバンは、カンダハール、ヘラート、マザリシャリフ、カブール、バーミヤンを
含めたアフガニスタン全土に迫る地域を占領した。サウジアラビア、パキスタン、UAEの
3カ国しかタリバン政権を正当には認めていないものの、ムジャヒディンの横暴に嫌気が
差していた90年代前半のアフガニスタン民衆の心情を考えると、出来るべくして出来た政権であった。

(注1) Ahmed Rashid (2000), Taliban: Militant Islam, Oil and Fundamentalism in Central Asia, U.S.A.: Yale University Press, p.25
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# by aokikenta | 2008-07-26 16:06 | 日記(イスラマバード)