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2008年 06月 25日
炸裂ラホール (前編)
プロローグ
それは、僕に「絶望」を予感させた。
西の空では、雷光がディスコテックの照明のように断続的な光の明滅を繰り返し、
横から殴りつける強い風と、雨が降る日特有の匂いが辺りを覆っていた。

ひょっとしたら、ラホール行きのバスは運行キャンセルになるかもしれないな。

それが、僕がその朝、玄関を出て最初に思った事だった。
そんな事態に陥ると僕は大変に困るのである。
そうだ、僕はこの旅行を楽しみにしていたのだ。
ラワルピンディ探索2回、イスラマバード探索1回を経て、
とてもいい流れでパキスタンという国を楽しんでいたので、このまま
ラホール旅行につなげて行きたいという気持ちがあった。

それに、平日の運動不足から来る体全体の倦怠感が拭えなかった。

倦怠感。

イスラマバードでは、それなりに大きい家、三食ご飯を作ってくれるクック、
身の回りの世話をしてくれるハウスキーパーに囲まれて、不自由のない生活をしていた。
しかし、体の底から沸き出てくるエキサイトメントを感じる事ができず、
不完全燃焼を抜けられないでいた。

今回のラホール旅行は、僕にとっては、まるで停滞ムードを切り裂く
中村俊輔のフリーキックのように、倦怠感という目の前の暗闇を引き裂く
ブレイクスルー的役割を担うはずであった。

だから、僕は、その日の朝の天気を見て、ひょっとしたらバスが
キャンセルになるかもしれないと思って、絶望を予感したのである。

しかし、バスは僕の最初の予想に反して、スケジュール通り運行した。
おかげで、念願だったラホール旅行を実現することができた。
今週は、片道300キロあるラホールまでバス日帰り旅行だ!

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↑イスラマバード-ラホールの位置関係図。

ラホール日帰り旅行
パキスタンを見て回りたいとずっと思っていた。イスラマバード近郊の主要な街は時間をかけて、大分見て回ることができたので、距離的には遠い場所にあるラホールやカラチやクエッタ等の大都市や、北部の山脈地帯を訪れたいと言う気持ちが、ずっと自分の中で燻っていた。僕は、ラホールに行きたいと思った。以前、ラホールの夜明けという文章を書いたが、成田からイスラマバードへ向かう時のトランジットで目にした暗闇に浮かぶライトアップされたラホール・フォートが、瞼に焼き付いて離れなかった。それは大袈裟な表現ではない。どこかパキスタン国内旅行をしよう、と思うたびに、ラホール・フォートの雄大な姿が僕の心を占領した。だから、僕はスケジュールの関係から1泊も出来ない日帰り旅行しかできないけど、ラホールに行こうと躊躇なく思った。そして、金曜日の朝、事務所件住居を出発してラワルピンディへ向かった。

Daewooという韓国の財閥が、パキスタンでかなり質の高いバスサービスを提供している。そのバス停がラワルピンディにある。僕は、以前、仕事でペシャワールに行った時にそのバスを利用したことがあったので、それを思い出して、今回の旅行でも使う事にした。前日に、朝6時発のラホール行きバスを予約したので、その日は、朝4時半に起床、5時にマルカスでタクシーを拾って(バザールの中心地に行くと、家に帰らないで車の中で寝ているタクシーが数台あった)、ラワルピンディへ向かった。家を出た時点で、空が曇っているし、雷が遠くで鳴っているしで、嫌な予感がしていたが、案の定、タクシーに乗るやいなや土砂降りになった。雨季という表現が適当なのかどうかはわからないが、パキスタンでは6月の後半になってから、早朝に雨がワッと降って、気温が下がるようになった。むしろ5月の方が暑かったくらいに感じるのは僕だけだろうか。

雨でフロントガラスを打ち付けられ、川のようになった道路をタクシーでかき分けながら、なんとかラワルピンディのDaewoo Bus Terminalへ着いた(タクシーのドライバーの発音を聞くと、「ダイウ・バス」というよりも「デーオー・バス」と聞こえる)。予約していたチケットの支払いをして、6時発のバスを待っていた。雨は次第に上がって、空が段々明るくなってきた。僕はこれから始まる旅に希望を膨らませていた。

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↑Daewooバス停から見る空模様。早朝に雨がワッと降って、30分くらいで止んだ。

バスは予定通り、きっちり6時に出発した。Daewooバスはなかなか快適だ。まず、日本ではもう珍しいバス・ガイドさんが添乗してくれる。途中何かを説明してくれるわけではないが、ミネラル・ウォーターとコーラを適宜注いでくれるし、車中で食べるようにとポテトチップスとクッキーの詰め合わせを配ってくれる。社内はクーラーも聞いてるし、皆で見られるTVモニターもあり、最初にヘッドフォンも配られるのだ。まるで飛行機みたいなサービスで僕は満足だった。行きは少し豪華なPremium Plusで840ルピー(約14ドル)、帰りは普通で600ルピー(約10ドル)だった。極端なことを言えば、両方600ルピーのバスに乗れば合計1200ルピー(約20ドル)でラホール日帰り旅行は可能なわけだから、かなり安い。

イスラマバード~ラホール間は約300キロあるので、4時間半バスに揺られていた。疲れた。バスを降りてから、すぐさま同じ日の夕方6時のラワルピンディ行きの帰り便チケットを購入した。カウンターの若いお兄さんが、「君、どこから来たの?」と聞いてきて、「ジャパン」と答えると、「Japan is a good country」ということになり、すぐに友達になった。お兄さんは僕と同じくらいの年恰好で、日本に好意を持っているようだった。名前はHassanと言う。何か困った事があれば電話してくれよ、ということで自分の携帯電話の番号まで教えてくれた。ありがとう。今自分がどこにいるのかよくわからなかったけど、人に大通りの名前を聞いてLonely Planetの地図と見比べながら、大体ラホールの街の東端の方角にいるらしいことがわかった。タクシーを捕まえて、取り合えず絶対に行こうと思っていたバードシャーヒー・モスクとラホール・フォートに向かった。

バードシャーヒー・モスクの衝撃
ラホール・フォートという城塞がラホールにはあって、そこの周辺はOld cityと呼ばれる古い街並みが垣間見れる地域だ。ラホール・フォートは1526年~1858年に栄えたムガール帝国の遺物で、第3代皇帝アクバルによって建築され、その後、破壊と修復を繰り返し現在に至っている。そのフォートに隣接して、バードシャーヒー・モスクというモスクがある。そのモスクが美しいと聞いていたので、僕は今回の旅行ではそこを中心としてプランを考えていた。

ラホール・フォートの入り口で200ルピー払ってタクシーを降りて、モスクの方角へ向かった。モスクの四隅に据えつけられたミナレットや、モスクの外壁にある大きな門が目に入る。否が応でも気分が盛り上がってくる。モスクへ通じる門のところで靴を脱いで門番に預けて裸足になってから、中へ向かった。門をくぐる途中、暗がりの中からモスクの方角を見やると、白いドームと赤いレンガで出来た大きなモスクがぼんやりと目の前に現れた。ドーム型をした門の輪郭に切り抜かれたバドシャヒ・モスクは、荘厳で雄大で美しかった。

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↑門の中からバードシャーヒー・モスクを望む。

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↑バードシャーヒー・モスクの中庭で記念撮影(・・・筆者がブログに登場することは今後ありません、多分)。

ガイドさんが「俺が案内するよ」と営業をかけてきたので、一人の若いガイドさんにお願いすることにした。彼の名前はAsifと言って24歳の好青年だ。彼はウルドゥー語、英語にはじまり、英語だけでもアメリカ訛り・アイリッシュ訛り・マンチェスター訛り、オーストラリア訛り・コックニーの5種類を使いわけ、加えて、ペルシャ語、ダリ語、パシュトゥー語、アラビア語、フランス語など20種類以上の言葉を話すという事だった。もちろん、パキスタン国内の少数民族の言葉も話すのだという。語学は才能ということを聞いた事があるが、彼と話すとそれを痛感する。

このモスクはムガール帝国第6代皇帝のアウラングゼーブ・アラム・ギールが建築したらしく、最大で10万人が礼拝できるように設計されているという。建物が赤く見えるのは、インドから運んできたRed Sand Stoneを使用している為ということなので、この辺りは当時のムガール帝国の地域だったということを実感する。イランのイスファハンで見たイマム・モスクは青が綺麗だったけど、このモスクはRed Sand Stoneの赤が綺麗だ。Asifの案内で、モスクの中を歩いて見て回った。

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↑バードシャーヒー・モスクの入り口。

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↑天井が高くて、中には空間がある。

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↑ドームの先端は、上からシーク、ヒンドゥ、仏教、イスラムを表しており、他民族融和の象徴なんだとAsifは説明してくれた。しかし、後で調べてみると第6代皇帝アウラングゼーブは、他宗教に対して弾圧をした指導者として有名だと書いてあった。Asifの言っていたことはどこまで本当だったのだろう。

Asifはこのモスクについて相当勉強をしているらしく、色々なことを説明してくれた。中でも面白かったのは、天然のエコー効果とマイクロフォン効果だ。モスクの中のホールで、2人の人間がお互いに対角線上になり、壁に向かって話しかけると、小さい声で喋っていてもホール全体に反響して、まるでマイクで喋ったように音が大きくなるのであった。他にも、ここに立って大きな声をだしてごらん、と言われてそうしてみると、声にエコーがかかるように聞こえるポイントがいくつかあった。

神と垂直的な関係で成り立っているイスラム教徒にとって、モスクは神への絶対的服従を誓う神聖な場所だ。神への服従を誓う場所であるからこそ、そこには神が作り出した規則(それは数学とか天文学とか哲学とかに細分化されていくのだろうけど)だと信じられていたものの断片が至るところで見られる。バードシャーヒー・モスクは、僕の目には完璧な左右対称に見えた。これだけの建築物を作るのだから、数学や建築学は相当発達していたのだろうなぁ。ひょっとしたら、色々と測ってみたら、ある部分とある部分に黄金比率が使われていたり、こことここを割ると円周率になる、とかそんな秘密が隠されているかもしれない。

そんな真理を追い求める場所だからこそ、モスクを写真に収める際にはど真ん中に立って、真正面から左右対称に撮影しなければならないような気がした。実際、正面から撮影すると一番綺麗に取れるのである。しかし、僕はそれをすることに対して抵抗があった。どうしても真正面からではなくて、斜めからとか、あるいは、他の人があまり取らないような形で撮影したいという気持ちが拭えなかった。それは、予定調和に陥りたくないという僕の性向かもしれないし、既にあるものを破壊して新しいものを創造していきたいと思うからかもしれない。

しかし、僕は思うのだが、キリスト教世界では、宗教改革を経てからキリスト教の権威の失墜が起こり価値観が多様化したという歴史がある。1517年のルターの宗教改革を一つの指標にすれば、キリスト教が誕生してから1517年後のことである。哲学の世界で言えば、ヘーゲルが近代理性主義の一つの終焉に到達して、その後は、それまでに積み上げたものを否定する方向が新しく生まれた。ニーチェからフーコー、そして、ポストモダン思想につながる流れというのは、これまであったものを越えようという意志から生まれたものだと言えないだろうか。

もし、そうだとすればキリスト教と同じようにイスラム経世界でも、ヒジュラ(聖遷)から1500年後くらいに宗教改革が起こり、価値観が多様化する時代がくるかもしれない。価値観の多様化、つまり神の否定による「絶対的価値の否定」と「相対的価値の誕生」である。そうなった時には、このバードシャーヒー・モスクも、ロンドンのトラファルガー・スクエアにあるナショナル・ギャラリーに飾られているキリスト教の宗教画のように、過去の栄光としてのパースペクティブを与えられることになるかもしれない。そして、その時には、斜めに写真を撮る事の本当の意味が広く共有されることになるかもしれない。

(後編につづく)
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by aokikenta | 2008-06-25 20:28 | 隣接国探索②漂流パキスタン編
2008年 06月 25日
炸裂ラホール (後編)
(前編からつづく)

ラホール・フォートとOld cityとミナレ・パキスタン
バードシャーヒー・モスクを見終わってから、Asifと一緒に、門の外にあるカフェでチャイを飲んで休憩した。ガイド料を払うよ、と言ったら、「僕はお金が欲しくてやってるわけじゃないんだ、これからもいい関係でいられたら嬉しいから。だから、ガイド料は君次第だ(up to you)」と言われてしまった。up to you・・・。As you wishに次いで、よく耳にする言葉だ。それでも、demandingな態度を示されるよりもいいかと思い、300ルピー(約5ドル)渡して、僕はラホール・フォートに向かうことにした。

ラホール・フィートとバードシャーヒー・モスクは隣接している。少し歩いてから、入り口で200ルピー(約3ドル)払って、ラホール・フォートを見学することにした。ラホール・フォートは元々城塞だった場所で、すぐ傍には昔は川が流れていたらしい。川があれば天然の要塞になるわけだから、それは利口な考えだ。しかし、今では川の流れが変わってしまい、近くに川は流れていない。赤いレンガで囲まれた敷地をぶらぶらと歩いて散歩を楽しんだ。緑色が綺麗な芝生が広がっていて、家族連れのパキスタン人が、雨が降った後の涼しい天気を楽しんでいた。パキスタンでは、いい天気とは晴れのことではなく、気温が低い天気のことを指す。

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↑ラホール・フォートの壁。道が広いのは象が通れるようにという配慮らしい。

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↑ラホール・フォートの中にあったキラキラ輝く建物の内部。

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↑内部の壁。この青色はアフガニスタンで採れたラピスラズリの青に違いない。

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↑ラホール・フォート内部からのぞむバードシャーヒー・モスク(右)とその門(左)。

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↑ラホール・フォート内部の階段。一段一段が浅く設計されているのは、象や馬が通れるようにということらしい。

ラホール・フォートを歩いていると、「写真を撮っていいですか?」という質問をよく受けた。最初、「シャッターを押してください」ということかと思って快く応じたのだが、どうも、お願いをしてきた人が横に立ち、その友達が写真を撮ろうとするので、実は「僕と一緒に写真に入って下さい」という意味だということに気がついた。わしは芸能人か、と思いつつ、笑顔で写真に納まった。僕は彼のアルバムの中で生き続けるわけだ。そう考えるとある意味すごい。しかも、お願いをされたのはこの日だけで一回だけではなく三回あった。パキスタン人にとっては外国人は相当珍しいのだろうか。そういえば、道を歩いているとやたらと声を掛けられたし、僕が現地人しか行かないようなバザールを歩いていると、その通りの空気を一変させてしまっているような錯覚に陥った。あるいは、僕は自意識過剰かもしれない。しかし、僕がそこに存在していることで明らかに周りの空気を変えている事は確かであった。「こちらアルファ。ロミオ、この道に侵入者あり、要注意、オーバー」とか「了解、ロミオ追跡します、オーバー」とか言いながら、通りの端々で現地人が無線で交信し合って逐一僕の行動をチェックしていたと言われたとしても、僕はさして驚かなかっただろう。

バス停を午前11時頃出てから、バードシャーヒー・モスクとラホール・フォートを見学し終わった時点で、午後2時くらいになっていた。お昼ご飯を食べようと思って、すぐ近くにあるOld cityへ歩いていくことにした。

Old cityは壁で囲まれた旧市街地だ。外界と切り離す為の壁が張り巡らされているが、お互いの世界を行き来する為に門が12個ある。バス停からバドシャヒ・モスクに来る際に門を3つか4つ見かけたので、大体方角がわかるから歩いてどこか一つの門へ行こう、と思い地図もよく見ないで歩き始めた。歩き始めたはいいのだが、いくら歩いても門が見つからない。デコレーションされたトラックとバスと、オートリキシャーと、荷物を運ぶ馬車や牛車が道路をひっきりなしに往来し、そこを無秩序に人々が横断をしている。バスのパパパパパパッという甲高いホーンの音が聴覚を刺激し、排気ガス規制をクリアしていないであろうリキシャーの排気ガスの匂いを吸い込み嗅覚をやられながら、ひたすら歩き続けた。しかし、結局、僕は道がわからずに迷子になってしまった。悩んでもどこへ向かっていいかわからないし、お腹がすいていたので、取り合えず、腹が減っては戦はできぬ、ということで道端にあるレストランでお昼ご飯を食べて、作戦を練る計画に変更した。

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↑Old cityのバザールの様子。車やバイクが数センチ横を走っていく。

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↑バザールの様子。真ん中あたりに見えるのは、よくみかける変電装置だ。

ラホールでは、お昼にボーンレス・チキン・ハンディというチキンカレーみたいな料理を食べようと考えていた。それをビリヤーニの上に乗せて、ヨーグルトをかけてから、お皿の上でぐるぐるかき混ぜて一気に食べようと企んでいたのである。しかし、完全に迷ってしまっていて30分くらい歩いて疲れていたので、もうどうでもいいやという気分になって、そこら辺にある食堂に入ることにした。そこは本当に地元の人しか来ないような食堂だったので、「この東洋人は何者だ?」という視線を痛いほど浴びながらご飯を食べる事になった(まぁ、それは食事中に限らないけど)。僕は、野菜のカレーとチャパティーとコーラを頼んだ。しかし、アルミのお皿に乗って出されてきた野菜のカレーのボリュームが少ないので、チキンカレーを追加した。通常の二人前にあたるのだろうけど、140ルピー(2ドルちょい)だった。

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↑お昼を食べた食堂。野菜のカレー、チキンのカレー、チャパティー2枚、コーラを頼んだ。

カレーをよそう係りの人に頼んで写真を数枚撮らせてもらってから、ワズィル・ハーン・モスクへの行き方を教えてください、と質問をした。実は、食事の後、Lonely Planetの小さな地図を見ながら立てた作戦というのは、とにかく一番近くのゲートに向かうことだった。ゲートまで出れば、地図に載っているし大体の方向感覚が掴めるはずだ。そして、その質問をしたワズィル・ハーン・モスクというのはデリー・ゲートという門のすぐ傍にあるモスクなのである。だから、そのモスクまで行けば、デリー・ゲートに着く事ができるはずであり、ゲートまで到着できれば、old cityを囲う城壁に沿いながら散歩が楽しめるはずだ。

「ここを真っ直ぐ行って右に曲がり、ずっと真っ直ぐ行くとあるよ」

と彼が言うので、それに従って歩いていくと、綺麗なモスクが現れた。しかし、パキスタンではよく見かける規模のモスクだったので、さして時間をかけずに奥に見えたゲートまで進んだ。道端のお店のおじさんに「このゲートの名前は何?」と聞いたら、「デリー・ゲートだよ」と返事が返ってきた。地図でデリー・ゲートを確認した。ラホール・フォートに近い場所にあるゲートである。やっぱり僕の作戦は成功だった。うんうん。

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↑デリー・ゲートを外から撮影。こういうゲートがold cityには12個ある

デリー・ゲートの所で水を飲んで少し休憩をした。これから、どこへ行こうかと悩んでいた。時間はもう既に午後4時頃を指していた。帰りのバスは午後6時で予約をしていたので、もう2時間しかない。ラホールには他にもラホール博物館や大きな庭園など、見るべきものが沢山あるのだが、元々の計画がラホール・フォートとバードシャーヒー・モスクを見る事だったし、時間もないので、城壁に沿ってold cityを散歩することにした。写真を撮りながら、街を歩いたら気分がいいだろう。そう思って、デリー・ゲートを出てから右に曲がって歩き始めた。

しかし・・・、しかしなのである。いくら歩いても次のゲートが見えてこない。見えるのは、オートリキシャーと、こぶ牛が引っ張る荷車ばかりで、肝心の赤い壁と古い門が見えてこないのであった。20分くらいあるいても見えないので、僕は更に計画を変更することにした。歩いていても埒が明かないので、リキシャーを捕まえて、ミナレ・パキスタンという新しい観光名所みたいな場所へ行き、そこで時間を調整してからバス停に戻ろうと決めた。僕は、青い色をしたリキシャーに「ミナレ・パキスタン」と告げ、60ルピー(約1ドル)という値段を確認してから、リキシャーに乗り込んだ。パキスタンでオート3輪車に乗るのは、これが始めてだった。

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↑リキシャーの中からラホールの街をのぞむ。中は案外快適。ドライバーの車両感覚は、日本人よりも鋭い。

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↑道端を走るデコレーションされたバス。

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↑装飾されたバス。何故か、僕は、パキスタンの派手なバスを見ると「死」を連想してしまう。

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↑馬車。ラホールでは、街中でも人間と動物が共存している。

ミナレ・パキスタンは、ラホールにある他の名所に比べると新しく、平たく言えば、コンクリートで出来たさほど高くない塔だ。塔の足元には1940年のラホール決議の碑文が刻まれているということで、パキスタン建国の象徴的な場所であるらしい。パキスタンが独立したのが1947年なので、パキスタンの名所と言うと、どうやったって新しいものになってしまうのは否めない。

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↑ミナレ・パキスタン。足元には、1940年のラホール決議(パキスタンの分離を認めた決議)の碑文が刻まれている。

ミナレ・パキスタンで写真を数枚撮ってから、芝生に座っていたら、僕を珍しいと思ったのか、3人のパキスタン人が僕の近くに寄って来た。親子ともう一人はその子供の友達という関係らしい。ウルドゥー語で何かを話しかけてくるが、全然わからない。英語でこちらから話しかけても全然通じない。ふと思い出して、鞄から「旅の指差し会話帳 ウルドゥー語版」を取り出した。それを見せたら、大分円滑にコミュニケーションが図れたような気がする。「旅の指差し会話帳」があったからいいものの、しばらくは言葉が通じない苦しみというのを久しぶりに痛感した瞬間だった。何を言おうとしても、知らないからもうお手上げなのである。でも、「ノーメ・チ・アスト?(名前は何?)」とダリ語で言ったら、しっかり名前が帰ってきた。ウルドゥー語では「名前」を「ナーム」というらしいことを後で知った。

30分くらい芝生の上で、「旅の指差し会話帳」を挟んで会話をしてから、僕はおじさん達3人組に別れを告げた。そして、バードシャーヒー・モスクの入り口付近まで歩いていって、リキシャーを捕まえた。130ルピーで合意して、僕はリキシャーに乗り込んだ。後は、バスに乗って帰るだけだ、と思うととても安心した気持ちになった。中からラホールの街並みを眺めていると、リキシャーのドライバーが「どこから来たの?」と聞く。「日本だよ」と応えると、「Japan Good!」という返事が返ってきた。聞いてるととにかく、パキスタンで走っている車は日本製ばかりだし、スペアパーツの品質も高いから日本が好きなのだという。

バス停に向かう途中で、ドライバーがリキシャーを止めてお店に入っていった。何だろうと思って途方にくれていると、彼は、アイスクリームを2本持って帰ってきた。1本は僕にくれるのだという。衛生的な問題は横においておいて、僕はその気持ちをありがたく受け取り、「シュクリア」と答えた(実は、リキシャーの後部座席に座りながら、これを食べるべきか食べないべきかと、僕は葛藤していた。この状況下で[つまり、アイスクリームを買ってくれたドライバーが運転するリキシャーに同乗していて、彼の目が届く場所にいるという状況で]アイスクリームを食べないで窓から捨てるというオプションも物理的にはあるのだろうが、現実社会ではほぼ選択できないオプションだ。結局、僕はそのローカル風のアイスクリームを全部食べきった。そして、僕はその日の晩から数日に渡って激しい腹痛に苦しめられる事になった)。

夕方5時半にバス停に着いた。イスラマバードから到着したバス停と同じ場所である。携帯電話番号を教えてくれたHassanに挨拶に行ったが、シフトが変わってしまったのか、彼は元の席にはいなかった。挨拶ができずに残念だった。僕は、6時前にラワルピンディ行きのバスに乗り込んだ。バスは予定通り、6時丁度に、ラワルピンディに向けて出発した。

エピローグ
炸裂してやりたかった。
ぶち壊してやりたかった。

絶望/希望、日常/非日常(祝祭)、創造/破壊、停滞/躍動・・・。
暗闇を引き裂きたかったし、日常を切り裂きたかった。
停滞ムードを破壊したかったし、あらゆる物を越えたかった。

朝5時に出発して深夜12時に終わったバス日帰りラホール旅行は、
単なる観光旅行というラベルを超えられなかったかもしれない。
でも、僕にとっては、それはいつまでも鮮やかな印象を記憶に残す旅だった。
そう、まるでユベントス戦で中田英寿が取った「あの2点」のように、
とても鮮烈な時間だった。僕はそれだけは自信を持って言える。

ラホールからイスラマバードへ向かう帰りのバスに揺られながら、
僕は、その日の朝に起こった出来事が同じ日に起こった出来事だとは信じられないでいた。
西の空に光る雷も、ゴロゴロとなる雷鳴も、フロントガラスを打ち付ける雨も、
アスファルトに出来た濁流も、そのどれもが遠い昔に起こった出来事、
あるいは、実際の世界で起こった出来事ではないような気がしていた。

写真のデータをパソコンに移して、午前2時頃、布団に入った。
バスの余韻を感じながら、体がいつまでもそっと揺れていた。

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↑バードシャーヒー・モスクが見守るラホールの街。

(おしまい)

※この記事は、筆者が2008年6月20日に、イスラマバードからラホールを訪れた時の記録です。
※「更新」ボタンをクリックしたら、「内容が多すぎますので、2374文字減らした後、もう一度行ってください」と表示されたので、2回に分割しました。本当は一回で炸裂したかったのに・・・、エキサイトのバカ。
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by aokikenta | 2008-06-25 19:28 | 隣接国探索②漂流パキスタン編
2008年 06月 16日
構造主義栄養学・・・
土曜日は、昼まで寝ていた。前日歩き疲れたこともあったし、何より起きなければいけない用事というものがなかったので、とにかく寝たいだけ寝ることにしたのだ。寝たいだけ寝られるというのは、多くの状況において幸せなことである。起きてからメールをチェックしてから、近くの食堂に行って、ナンとダールを食べて、マンゴージュースを締めに飲んだ。パキスタンのフルコースメニュー。パキスタンでしか容易に味わえないことを考えると、これもなかなか幸せな組み合わせである。

最近、パキスタンの食事をしながら、「構造主義栄養学」という学問は出来ないものかと考えたりする。よく日本人や欧米人と話していると、パキスタンの料理に対する不満を耳にする。油が多い、どれも味が煮ている、なんであんなものを食べているのか理解できない、etc。確かに毎日食べていると飽きるのは事実である。しかし、それはどの国の料理を食べていても同じことではないだろうか。また、パキスタンの朝食の定番パラサ(小麦粉をこねた物を油で焼く料理)を食して、なんでこんなに油を使うんだろう、きっとパキスタン人は味がわからないに違いない、というようなことを聞く事もある。しかし、果たしてそれは事実なのだろうか?

スイス出身のソシュールという言語学者がいる。彼は、構造主義に大きな影響を与えた人だが、彼の大きな業績は「シーニュ(記号)=シニフィアン(記号を形作る音のイメージ)+シニフィエ(記号の意味内容)」という公式を打ち出したことにある。言葉には二つの側面がある。一つは、それが「mizu」という音によって出来ている側面。もう一つは、水が表す意味という側面。彼は、前者をシニフィアン、後者をシニフィエと呼んだ。また、彼は言語というのは他の物との対立でしか表せないという事も発見した。例えば、「あ」という音がどういう音か、説明することは出来ない。それは「い」でも「う」でも「え」でも「お」でもなく、その他のどの音でもないという差異でしか説明できないのである。彼の理論を引き継いで、プラーグ学派という人達は音韻論という学問を発達させた。音というのは、「音素」に分類させることができるとして、音韻論は大きく発展した。

この「音素」を「栄養素」に変換してみたら、どうなるだろう?パキスタンの朝ごはん、例えば、パラサとダール・チャンナを想定したとする。パラサは大きく分けて、炭水化物と脂質という栄養素に分解することができるだろう。また、ダール・チャンナは蛋白質とビタミン類に分類できるに違いない。もう一方で、イギリスの典型的な食事、トーストとビーンズとソーセージはどうだろう?トーストは炭水化物、ビーンズは蛋白質とビタミン類、ソーセージは蛋白質と脂質に分解できるだろう。日本の食事、白米と鮭の塩焼きと漬物はどうだろう?白米は炭水化物、鮭は蛋白質、漬物は食物繊維とビタミン類に分類できるだろう。

ひょっとして、これは直感だが、世界の食事というのはこういう風に栄養素で分解したら、ほとんど三大栄養素の炭水化物、蛋白質、脂質に分解できるのではないだろうか。そしてまた、一食の総カロリーを計算したら、大抵同じカロリー値が導き出されるのではないだろうか。おそらく、ちゃんと比較をしてみたら多少のズレはあるだろう。しかし、そのズレは、カロリー値が多すぎる場合は寒冷地あるいは熱帯という特殊な環境の為に、他の地域よりもカロリーを多く必要とするという理由があるからと説明できる。少ない地域の場合、朝食での比較では少ないが、一日の総量としてみれば、昼食と夕食のカロリー値が多くて、補完し合っているのかもしれない。

僕がなんでこんなことを書くかというと、もし構造主義栄養学なるものが出来るとすれば、パキスタンは「未開」社会だからパキスタン人はこんなものを食べているのだ、とか、アフリカは未開社会だから油のどっぷり入ったものばかり食べているんだ、というような偏見や固定観念を覆すことができるのではないだろうか、と思うからだ。自民族優位主義というのはどこの社会にもあると思うが、よく見てみると、劣っていると思われる社会にもその制度を維持する為の理由があるのではないだろうか。もし、比較方法論によって、異なる社会の食事における共通の栄養構造が抽出できれば、新たな視点が得られるのではないかと思う。

しっかり調べもしないで書いているので、僕は間違えているかもしれないけど、「郷に入れば郷に従え」という諺があるように、「全く理解できない」事柄の中にも必ず何らかの意味が横たわっているのではないだろうかという確信はある。

土曜の午後は、サッカー部の練習に参加して、そのまま中華料理屋で開かれた新入部員歓迎会に参加してきた。日曜の今日はずっと仕事をしていた。夜に食べたチキン・ニハリが美味しかった。

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↑チキン・ニハリ。辛くておいしい。左にあるのはチャパティー。奥にある生姜とパクチーとレモンと青唐辛子で、味を調節できる。
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by aokikenta | 2008-06-16 00:58 | 日記(イスラマバード)
2008年 06月 14日
灯台下暗し、イスラマバード巡り
今週末も、どこかイスラマバード近郊をブラブラしようと画策していたが、よく考えたら大体近郊の街には行っていることに気がついた。よくガイドブックで紹介されているイスラマバード近郊の名所と言えば、ラワルピンディ、タキシラ遺跡、マリー、ソルト・レンジ等なのだが、パキスタンに引っ越してきてから、そのどれも全て訪れた。まだ、ロータス・フォート(世界遺産)という古い城塞には行ったことがないのでそこには行ってみたいのだが、遠くてタクシーでは行けないので、車を一日借り上げないといけない。車を借り上げる準備をしていないので、今週に関してはそれを断念した。何をしようかと考えた挙句、イスラマバードのマーケット巡りをすることにした。案外、まだイスラマバードでも行っていない所もあるし、このブログでも紹介していない所も沢山ある。ということで、今週は、灯台下暗し、イスラマバード巡りだ。

午前中はゆっくりして、お昼を食べてから出かけることにした。F-10マルカスでタクシーを拾って、まずは、F-7にあるジンナー・スーパーマーケットに行く事にした。タクシーのドライバーに「いくら?」と聞いたら、「As you wish(お望みのまま)」と返事を返された。as you wish・・・。パキスタンに限らず、アフガニスタンでもよくスタッフに言われる言葉だ。この言葉の背景にあるのは、カスタマー・サービスなのだろうか、それとも、単に主体性がないということなのだろうか。よくわからないが、「90ルピーは?」と言ったら、首を横に振って「OK」というのでお願いすることにした(南アジアではYesが首を横に振る仕草なので、紛らわしい)。タクシーの運転手は緑のターバンを巻いたおじいちゃんだが、サングラスをかけているクールなおじいちゃんだった。まるでヨーロッパで育った西洋形而上学とキリスト教を否定したニーチェのように、彼は実は内面では「I am sick of tradition」と思っていて、これまでに積み上げられてきたパキスタンの伝統を意図的に破壊しようとしてそういう格好をしているのかなぁと思ったが、どうも話している限りでは彼にそんな意識があるとは思えなかった。

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↑緑のターバン、白い髭、サングラス。

タクシーはF-10にあるマクドナルドを左折して、ジンナー・アベニューを大統領官邸に向かって直進した。ジンナーというのは1947年にインドから分離独立した時のパキスタンの建国の父で、イスラマバードの建物や道路や公園など、いたるところには彼の名前が付けられている。カイデ・アザムという愛称でも親しまれている。ジンナーは1940年のラホール決議で、パキスタンはインドから分離独立しなければならないと宣言して、1947年に独立を果たした。当時の状況をよくリサーチしていないのでわからないが、そもそもパキスタンはsecular(政教分離)な国を目指していたと聞いた事がある。しかし、イスラム教を、ナショナリズムの高揚、ひいては国家の統一の重要な中心に据えたいという、ジンナー以降の指導者の思惑から、パキスタンは政教分離国家ではないという解釈が一般的にされているようだ。ジア・ウルハックなどは、イスラム教国としてのパキスタンを押し出した政治家の代表で、独立後60年の間に、色々な要因があって現在のパキスタンに至っている。

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↑ジンナー・アベニューから大統領官邸をのぞむ。暑すぎて陽炎が見えた。

F-7のジンナー・スーパーマーケットには20分くらいで到着した。ここは、僕もよく来るマーケットで、イスラマバードでも一番大きなマーケットだと思う。大抵のものが揃っていて、非常に使い勝手がいい。特に、洋書が沢山おいてあるSaeed Book Bankや、DVDを売っているIllusion、お洒落な服を売っているJunaid Jamshed、リーバイスの本物を売っているお店、楽器屋などがあって、外国人もよく来るマーケットだ。

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↑左に見えるのはオーロラビション。オーロラビジョンがあるのはここくらいのものだ。中央広場では、ジュースやファーストフードを楽しめる。

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↑Saeed Book Bank。日本の大学では、洋書を読む授業を「原典購読」と言っていたが、イギリスとパキスタンに行ってから、その言葉が妙に大仰で陳腐に聞こえるようになった。何故なら、僕が「原典購読」と言って読んでいた本は、イギリスではみんな芝生に寝転がって普通に読んでいる本だったし、パキスタンで教養のある人も普通に読んでいる本だったから。

Bataというなかなかイケてる靴屋さんで、こげ茶色のサンダルを買って、写真を数枚撮ってから、お隣のF-6にあるスーパーマーケットに行くことにした。通常はタクシーで移動するが、今日は歩きたい気分だったので、徒歩で行く事にした。スーパー・マーケット(これは固有名詞です)は、民族衣装やハンディクラフトのお店が充実している大きなマーケットだ。他にも、Doctor Watsonという薬局や、ケンタッキー・フライドチキン、North Faceのお店(海賊版かもしれないけど)、DVD屋のIllusionなどがある。日本にいる家族や友人にお土産を買うには、最適の場所だと思う。僕も、大理石で出来たお土産を数点購入した。そういえば、最近、F-6にはフットサル・コートが出来た。テニス・コートも併設されている。まだプレーした事はないが、見た感じがすごく綺麗なので、一度プレーしてみたい。

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↑F-6のフットサルコート。日本でも通用しそうな綺麗さだ。

この時点で、汗をかき過ぎてTシャツには塩が浮いていたが、水を飲んで少しだけ休憩をしてから、今度はコサール・マーケットに行くことにした。コサール・マーケットも、スーパー・マーケットと同じF-6にあるが、1キロくらい離れた場所にある。ここにも歩いていくことにした。

コサール・マーケットは小さい。しかし、小さいながらも密度の濃いマーケットだ。特に、今日はじめて訪れたThe London Book Companyは、本の種類が豊富でいい本屋さんだ。これから度々来る事になるかもしれない。今日は、「from Kashmir to Kabul: Photography 1860 - 1900」という、アイルランド人の写真家が1860年~1900年にかけて撮影した写真集を購入した。パラッと本屋で見ていて、思わず笑ってしまった。だって、当時と現在でも、全然風景が変わらない。アフガニスタンのバザールの様子なんて、今とそのまま同じだ。きっと、電気とか自動車とかテレビとか、新しい物は確かに輸入されてきているけど、それらを除けば、彼らの暮らしは何百年も変わってないのだろう。

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↑コサール・マーケットの様子。

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↑The London Book Companyの概観。古本が豊富に売られている。

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↑ムルタンの陶器。イランの青とは違うけど、これも色が綺麗だ。

水を補給してゆっくりして、これからどうしようかと座りながら考えていた。このまま、G-6方面に南下して、ブルーエリアやアブパラ・マーケットを探索する事も検討したが、ちょっと歩いただけで疲れてしまって、その気になれなかった。とりあえず、スーパーマーケットに戻ろうと思い歩き始めたら、途中で、ソニーの正規の代理店っぽいお店があった。そこの裏手に、パキスタンの伝統とモダンが融合したような素敵な服を売るお店があったので、入ってみた。女性用の綺麗なショールやドレス、男性用のクルタや丈が長めのシャルワル・カミーズが、整然と並んでいた。カラフルな色彩に加えて、上質な素材、洗練されたデザインの服を目の前にして、沢山買いたい衝動に駆られてしまった。しかし、丈が長いシャルワル・カミーズは、衝動買いしても日本で着る機会がほとんどないので、丈が短いクルタを2枚買う事にした。お店の名前は「Khaadi」と言う。これなら、日本で着ても変じゃなさそうだ。

リュックサックにはBataで買ったサンダルとネスレのミネラルウォーターとスーパーマーケットのハンディクラフト屋で買った大理石のお土産、肩からはデジタル一眼レフカメラ、そして、両手にはThe London Book Companyで買った写真集と、Khaadiで買ったクルタ2枚を持っていたので、もうこれ以上歩く気がしなかった。お店の前で客待ちをしている黄色い軽自動車のタクシーをつかまえて、家に戻る事にした。今日行った場所は、これまでにも行ったことのある場所ばかりだったけど、The London Book CompanyとKhaadiを見つけた事は大きな収穫だった。

灯台下暗し。イスラマバードにも、まだまだ僕が知らないことが沢山あるみたいだ。
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by aokikenta | 2008-06-14 02:13 | 隣接国探索②漂流パキスタン編
2008年 06月 13日
updates
先週末にラワルピンディに遊びに行ってから、特に取り立てて書くことのない日常を送っていたが、アフガニスタン/パキスタンにまつわる話題がメディアで取上げられているので、少しだけupdateしておこう。

1. Paris conference
今日6月12日に、パリでアフガニスタン復興支援会合が開かれた。これで、アフガニスタンの復興の国際会議は、2002年1月の東京会合、2004年3月のベルリン会合、2006年1月のロンドン会合に続いて4回目になる。カルザイ大統領は、国際社会から500億ドルのプレッジを求めてアピールをしたようだが、アルジャジーラの報道では、150億ドルくらいになるのではないかと予想されている。アメリカは100億ドル、フランスは援助を2倍にすると約束したようだ。冷戦が終わり、しばらくの間見捨てられたアフガニスタンだが、こうして80カ国以上のドナー国を集める国際会議が開かれているところを見ると、依然としてアフガニスタンは国際社会の関心の中心にあるということだろうか。

しかし、多額の援助を受け取るアフガニスタンには沢山の問題がある。一つは援助の効率性の問題で、OxfamとACBARが発表したペーパーによれば、国際社会によってプレッジされた金額の40%が、ドナー国に還流しているという。結局、ドナー国の国際スタッフの給料やその他アドミンコストにばかりお金が使われて、アフガニスタンの末端にまでお金が届かないということだろうか。エコノミックヒットマンを思い出した。それに、アフガニスタンの援助に依存した財務体質も問題だ。BBCの報道では、2006-2007に国際社会から援助された金額は、アフガニスタンの国家収入の7倍だったらしい。腐敗の問題もあるが、これからどうやってnationalizationしていくかということが問題となるだろう(・・・ということは、僕がアフガニスタンに赴任した時から言われているが)。

ノルウェーやデンマークは、ISAF軍に自国の兵士を派遣しているが、自国民兵士の負傷者数が増加していることから「一体、僕達は何の為に戦っているの?」という声が強まり、政策を疑問視する声が強まっているという。何の為に、兵士を派遣するのか。何の為に、支援をするのか。日本を含めたドナー各国は、現実主義的なパースペクティブから人道主義的なパースペクティブから、考え直してみてもいいかもしれない。

2. Judge restoration
昨年秋に、ムシャラフ大統領によって罷免された最高裁長官らを含む裁判官が、パキスタンで大規模なパレードを行っている。ラホールからイスラマバードにデモ隊が行進をしているらしく、明日13日にはイスラマバードの大統領官邸付近に到着するのではないかと報道されている。警備を増強したり、トラックのコンテナで道を封鎖したり、緊張が高まっている。裁判官の復帰を先導しているのは、ナワズ・シャリフPML-N党首(元大統領)だ。1999年にmilitary coupで政権をムシャラフ大統領に奪われたからかどうかはしらないが、彼は、前からずっとこの問題を重視している。この問題の影響もあってか、先月、PML-Nは政権から離脱すること宣言して、PPPと決別した。この問題は、今後どう発展していくのだろうか。

3. US air strike in tribal area
昨日、アフガニスタン/パキスタンの国境付近で、アメリカが空爆を行い、11人のパキスタン兵士が死亡したと、BBCが報じている。アメリカは、タリバンが先に攻撃を仕掛けていたので、仕方のない正当防衛だったと発表しているが、パキスタン側は「アメリカがパキスタン領土に入った」ことを非難し、国家主権(sovereignity)を侵害したとアメリカを非難している。これを受けてアメリカは、珍しくビデオ映像を公表して、正当防衛であったことを主張している。

カブールのスタッフの一人がパクティア県出身で、彼が「パクティアの少し先にはパラチナル(パキスタンの都市)がある」と言っていた事を思い出した。そこに住むパシュトゥン人にとっては、アフガニスタン/パキスタンの国境なんて目に見えなくて、同じ仲間が住んでいる地域というくらいにしか考えてないのだろう。しかし、現実として国境が引かれているのだから、アメリカがパキスタン領土を侵したとしたら、パキスタンはこれを大きな問題として見るだろう。

そもそも、この問題が大きくなっているのは、パキスタンがアメリカとアフガニスタンとよく調整しないまま、タリバンと平和合意の話しを進めてしまったことにあるように思う。アフガニスタンとそれを支援するアメリカにしてみれば、タリバンがパキスタンと平和合意を結び、攻撃をしないと約束したことは、即ち、アフガニスタンの脅威が増した事を意味するのであり、その辺の関係でアメリカ/アフガニスタンとパキスタンの間で上手くいっていないのではないだろうか。元々上手くいっていなかったが、それが顕著に表面化してしまったということかもしれない。パキスタンの視点に立てば、2008年2月以降、連立政権も上手くいかないし、治安も良くならないし、内憂を抱えていたので、少しでも治安を改善しようとか国民の信頼を取り戻そうとかいう思惑があって、話を急ぎすぎたのかもしれない。それは、パキスタンの立場に立てばよくわかる話ではある。しかし、アフガニスタンにしてみれば、もうちょっと僕達も巻き込んで話しをしてくれてもいいじゃないか、という気持ちかもしれない。

アフガニスタン/パキスタン/アメリカ、もちろん、それ以外にも背後でうごめく国や集団の利害が、アフガニスタン/パキスタンを舞台として錯綜している。面白いなんて言ったら怒られるかもしれないけど、面白い。
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by aokikenta | 2008-06-13 00:23 | 日記(イスラマバード)
2008年 06月 08日
パキスタンの食事
今日は、土曜日だけど仕事だったので、9時から働いていた。天気がいい日に、事務所でデスクワークをするというのは、精神的に健康ではない。しかも、周りの人が休みなのに働くというのが気分的に宜しくない。しかし、アフガニスタン事業が動いているから仕方がないのだ。

土日はクックがいないので、大抵レストランへ行く。今日のお昼は、近くのローカル・レストランへ行ってきた。食べたのは、マトン・コルマ(羊肉の煮込み)とナンとライタ(ヨーグルトみたいなもの)。マトンが柔らかくてすごく美味しかった。毎日食べると飽きるかもしれないが、パキスタンの料理はスパイスが効いていて、焼きたてのナンと一緒に食べるとすごく美味しい。毎週末レストランへ行くので、これからどんどん色んな料理を試してみたいと思う。食後には、ジュース・スタンドでマンゴー・ジュースを飲んだ。やっぱり美味かった(よい子の皆さんはお腹を壊す恐れがあるので真似をしないで下さい)。

仕事が終わってからは、日本人サッカー部の練習に行ってきた。サマータイムが導入されてから、1時間、開始時間を遅らせて、17:00開始に変更になった。17:00というと結構涼しいのではないかと思うかもしれないが、つい10日前までは16:00だったので、真昼間ほどではないが相当暑い。15分のミニゲームを4セットやって、汗だくになった。いいエクササイズだ。

夜は、マリオットホテルの『さくら』に行って、握り寿司(松)を食べてきた。サーモンうまい。沢山運動したし、美味しいものを食べたしで、よい週末だった。

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↑マトン・コルマとナン。コルマはアフガニスタンにもあるが、味がもっと平坦だった。パキスタンのコルマは、日本人が想像するカレーに近い。
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by aokikenta | 2008-06-08 03:52 | 日記(イスラマバード)
2008年 06月 07日
混沌ラワルピンディ その2
先週、ラワルピンディ探索が良い気分転換になったので、今週もラワルピンディに行くことにした。前回は、サダル・バザールに時間の大半を費やしたので、今回はラジャ・バザールを集中的に見ることにした。F-10のバザールでタクシーを拾い、「ラジャ・バザール」とだけドライバーに告げた。金曜日の午後で、街全体がお休みモードに入っていた為かどうかはわからないが、始めは少し面倒くさそうな顔をしていたが、「180ルピー(300円くらい)出す」と高めの値段を言ったら、快く引き受けてくれた。サングラスとミネラルウォーター1.5Lとロンリー・プラネットが入ったリュックサックを背負い、肩からはキャノンのカメラを提げて出発した。

まず、最初に先週の記事に関して、追加して書いておかなければならないことがある。ラワルピンディには、サダル・バザールとラジャ・バザールがあると書いた。それは事実として正しいのだが、どうやら先週、僕が後半に行った場所は、ラジャ・バザールにはまだ完全には属していない地域だったようだ。というのも、今週、タクシーのドライバーに降ろされた場所は、先週行った辺りから少し遠い場所だったから、それに気がついたのだった。ロンリー・プラネットを見てみると、「This busy bazaar (Raja Bazaar) is a kaledoscope of people and merchandise spreading in every direction from chaotic Fowara Chowk」とある。地図を見てみると、Fowara Chowkというのはラウンド・アバウトのようだ。だから、これを逆に考えれば、Fowara Chowkというラウンドアバウトがある場所が見つかれば、ラジャ・バザールなわけだ。そして、今日はこれで間違いないだろうという六叉路を見つけたので、間違いに気がついたわけだ。予備知識もなくぶらぶらしているので、こういうこともあるさ(すいませんでした)。

さて、タクシーを下りたら、本当に雑然としたバザールが目の前に現れた。自分が今どこにいるのかよくわからなかったので、もっと賑やかそうな場所を目指して歩く事にした。歩いていると、とにかく目にしたのは、リキシャ(オート三輪車のタクシー)だった。イスラマバードでよく見る黄色い軽自動車のタクシーと同じくらいか、それ以上の数のリキシャが走っていた。車の背面には、ローマ字で「QINGQI」と書いてある。キンキ?チンチか?中国語を読み下したみたいな音の響きなので、四声(しせい※)でもつけてみたいところだ。ところで、「リキシャ」の語源は、日本語の「人力車」らしい。走ってる車はほとんど日本車だし、トヨタとかホンダとかスズキとかダイハツとかが、ほとんど日常の言葉になっているし、人力車が輸入されてリキシャーとして親しまれているし、日本文化のパキスタンへの浸透ぶりはすごい。

※中国語ではイントネーションが違うだけで、同じ音でも違う意味をします。主に4つのイントネーションがあるので、それを四声と呼びます。

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↑ラワルピンディを走るリキシャ。

歩き続けていると、野菜や果物を売っているバザールの一角があった。アフガニスタンでもパキスタンでもそうだが、バザールの中で同業者が固まっている場合が多い。例えば、車の用品なら車の用品の一角が、文房具なら文房具の一角があるという様子だ。消費者側にしてみれば便利だけど、競争原理が働いて、価格が高かったりサービスが悪い店は淘汰されないのだろうか。通り一本全て同じ業種のお店が並んでいるのを見ていると、他人事ながら妙に心配になってしまう。

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↑青唐辛子屋を売る八百屋さん。ファムファタール的とうがらし・・・。

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↑トマト屋さん。測りでキロ売りしてくれる。

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↑じゃがいも、及び、たまねぎを売る道端の行商(及び、という言葉は硬すぎますか)。

この前、マンゴーの写真を載せたので、果物の写真は撮らなかったが、マンゴー以外にも、桃、プラム、メロン、すいか、アメリカンチェリー、ブルーベリー等々、果物は豊富に売られていた。それから、梅を水で薄めた梅ジュースのような清涼飲料水を売っているお店も沢山あった。お腹を壊しそうなのでやめておいた。

リキシャや八百屋さんや果物屋さんを見ながら歩いていると、これがFowara Chowkに間違いないであろうという、賑やかな六叉路に到着した。本当に綺麗に六方向に向けて道が走っている。しかし、どの道もセンターラインはなく、車やバイクは遅い車を追い越し放題、歩道もない場合が多いので、歩行者の真横をすごい勢いでバイクや車が通り抜けていく。信号もないので、各々の人が渡りたいタイミングで渡りたいように渡るのがルールのようだ。

パキスタン人は道を渡るのが上手い。僕は、まだ道渡りの練習中なので、先に渡ろうとしているパキスタン人にくっついて道端で待つ。いわば、そのパキスタン人は僕の道渡りのインストラクターだ。彼は背中で僕に道渡りを教えてくれる。一見、連綿と続いているかに見える車の流れの「切れ目」を、先生は長い人生経験から一瞬で判断をして、歩き始める。僕は、車が向かってくる方角の陰になる部分、所謂、道渡り安全地帯に入り込み、万が一、車がスピードを緩めなかった場合でも被害を受けない位置を確保する。そして、OJTさながらに先生にくっついて道を渡るのであった。エジプトに旅行に行った時も、道渡りは同じような状況だった。日本人の中には、夜でも信号を守る人がいるので、その落差たるや相当なものである。

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↑Fowara Chowk。綺麗な六叉路になっている。

ラワルピンディに来たのには、特別な目的が合ったわけではなく、運動をしたいということやパキスタンをもっと見たいということ、いつもと違う景色に触れて気分を変えたいということくらいだったので、僕はその六本の道を全て歩いてみようと思った。六本の道全てを歩いてから同じ道を戻って来る事をイチイチしていてると、行きと帰りが同じ景色でつまらないので、方法を変えてみた。それぞれの道をA、B、C、D、E、Fと時計と反対周りの順番で名づけたとして、道Aをまず歩く。500メートルくらい歩いたところで、なんとなく人が少ないし寂しくなってきたなと思ったら、左に折れる道を入るのだ。そうすると、道が行き止まりでなければ必ず道Bに到着するはずである。Fowara Chowkを中心点(仮に点O)とした場合、中心点Oと点A(道Aの500メートル行った地点のことです)と点B(同左)からなる二等三角形ができる。その底辺を移動するのだ。こうすることで、同じ道をまた戻ってくる必要がなく、飽きる事がない。なんて素晴らしいアイデアなんだ!これは素晴らしいアイデアなので、この方式を「ケンタ式六叉路の歩き方」と名づけておくことにしよう。

そんな調子で、六本の道を全て歩こうと一生懸命歩いていたら、魅力的な小道があるのでそこに行ってみることにした。何故、魅力的に感じたのかわからないが、そこは大通りから一本横道に入る小道で、パキスタンの庶民の生活の匂いが感じられる場所だった。街角にはジュース・スタンドがあって、道端にはフルーツを売るおじさんの手押し車が並んでいる。両側には、レストランや雑貨屋さんや洋服屋さんが軒を連ねている。子供達はそこら辺を走り回っていて、僕を見ては「ニーハオ」と声を掛けてくる。「なんてここはパキスタンなんだ」と思ってカメラをバッグから取り出したら、子供達に取り囲まれてしまった。撮ってくれとしきりに言われるので、一枚写真を撮ったら、もっと撮ってくれと言ってきかない。そのしつこさが目に付いたのか、一人のおじさんが僕の手を引っ張って、いかにも現地の人しか行かないようなレストラン(というよりも食堂)に連れて行く。なんだこの人は、信用していいのかな、と思っていたら、「ドゥースト、ドゥースト」と言うではないか。ダリ語で「ドゥースト」は「友達」のことだ。ウルドゥー語でもきっとそうに違いない。だから、このおじさんは今始めてあった日本人の僕を友達と言って、困っている僕を助けてくれたのだ。なんて優しいんだ。

食堂に入ると、おじさんは「何か食べるか」と聞いてきた。お昼は食べてから出発したので、お茶だけ飲みたいと言うと(実際は「チャイ!」としか言ってません・・・)、すぐにチャイを用意してくれた。パキスタンは暑いだろうと行って、扇風機の前の特等席にも座らせてくれた。おじさん、ありがとう。

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↑せがまれたので撮った子供達の写真。これを撮った後、手を掴まれて「もっと撮ってよ!」と大勢に囲まれてしまった。

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↑右側のおじさんが、救ってくれたおじさん。ドゥーストです。

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↑食堂の中の様子。このおじさんは、英語をよく話す。日本に友人が住んでいるらしい。彼も日本に行こうと思ってビザを申請したが、リジェクトされたと嘆いていた。

優しくしてもらって名残惜しかったけど、1時間くらいしてから席を立つことにした。チャイ代を払うよと言っても、キミはゲストだからいいんだ、と言って受け取ろうとしない。仕方なく、お金を払わず、お礼だけ言ってお店を後にした。

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↑デコレーションされた乗り合いタクシーの上で、客寄せをするお兄さん。

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↑3人乗りをするバイク。一番後ろの女性は、バイクにまたがらないでちょこんと座っている。パキスタンではよく見かける光景だ。

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↑途中で見かけた綺麗なモスク。

道Aから道Fまでを、夕方6時くらいまでに歩き終えた。とてもいい運動になった。サダル・バザールとも違うし、イスラマバードとも全然違う。ラジャ・バザールには雑踏と喧騒と混沌があった。雑然と立ち並ぶお店、手押し車で野菜や果物を売る男達、家族の為に買出しに来ている女達、カラフルにデコレーションされたトラック、タクシー、リキシャ。そして、一見ルールがないようにchaoticに行動をする人々。しかし、彼らには僕にはわからない一つの秩序があるのだろう。僕は、それを時間をかけて理解したいと思う。まだ時間がかかるかもしれない。しかし、そうすることで、少しだけでも違う文化のことがよく理解できるかもしれないし、お互いの事が分かり合えるかもしれない。海外赴任というのは時間が限られているもので、あんまり与えられた時間は多くはないかもしれないけど、出来る限り、そう努めてみよう。

最後に、ラジャ・バザールでは、モスクと同じくらいヒンドゥー寺院を見かけた。それも、混沌とした雰囲気に拍車をかけていた。異文化の融合、他民族国家パキスタンを如実に表しているような気がした。

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↑ヒンドゥー寺院。

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↑別のヒンドゥー寺院。

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↑ラジャ・バザールでは、何故か沢山のヒンドゥー寺院をみかけた。
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by aokikenta | 2008-06-07 00:58 | 隣接国探索②漂流パキスタン編
2008年 06月 04日
Bull raceとTent pegging
少し前の話になるが、知り合いの誘いでBull raceというイベントに行ってきた。
Bull raceは読んで字の如く、牛のレース、いわば競牛とでも呼べるスポーツだ
(スポーツと言い切っていいのかどうかわからないが、乗る人にとってはいいエキササイズになるはずだ)。

Bull raceでは、騎手が、牛2頭に引きづられる格好で、小さなソリのようなものに乗る。
助走の段階では2人くらいの男が手伝い、牛が勢いに乗り出すと助手は手を離して、
後は、牛2頭と騎手だけがものすごい勢いで数百メートルあるレーンを一気に駆け抜けるのだ。
発祥の起源については、よくわからない。

そういえば、以前、このブログでHorse raceを紹介した。
記事の中で、Horse raceは軍事技術と関係があるかもと書いたが、それを裏付ける面白い話を聞いた。

なんでも、Horse raceの方は別名「Tent pegging」とも呼ばれるらしい。
Tent pegとは「テントの杭」のことなので、テントの杭を刺す事というくらいの意味になるだろうか。
なんで、Horse raceがTent peggingと呼ばれるかというと、これにはわけがある。
Horse raceは、そもそも、夜襲で敵陣を襲う際の馬術を磨く訓練だった。
どういう戦術を昔の人達が用いていたかというと、夜、相手が眠りこけているところで襲撃をかけて、
その時、騎馬たちが、テントの杭を槍で全部抜いてしまえば、相手はわけがわからないまま、
自分達が寝ているテントの屋根が落ちてくることになる。なんだなんだ、と思っている間もなく、
後からやってきた、別の騎馬たちにテント布の上から槍で串刺しにされてしまうのである。
これは、すごい戦術だ。

そういうわけで、Tent peggingというんだとさ。
だから、あのHorse raceの標的に使われていた杭は、テントの杭を想定していたわけだ。
パキスタンの昔の戦争の様子が想像されて、面白いもんだ。

あと、蛇足だがBull raceに出てきた牛の肩には、見たこともないこぶがついていた。
一緒に観に行った人と、あれはナンなのだろうかと推測したが、結局、らくだのこぶみたいな
もので、脂肪と水分でできているのではないかという結論に至った。
南アジア特有の牛の種類なのだろうか。よくわからない。

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↑Bull raceの様子。土埃を上げて牛が走っていく。数千人はギャラリーがいたと思う。
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by aokikenta | 2008-06-04 23:31 | 日記(イスラマバード)
2008年 06月 03日
在パキスタンのデンマーク大使館爆破テロ
今日6月2日に、在パキスタンのデンマーク大使館で爆破テロがありました。
報道では、6人が死亡、30人以上が負傷したと報じられています。デンマーク人の犠牲者はいなかったとのことです。

数年前に、デンマークの新聞紙上に掲載された預言者ムハンマドの風刺画が、今年の2月に同紙に再掲載された為に、その筆者を殺害しようと試みたモロッコ人とアルジェリア人が逮捕されるという事件がありました。この再掲載はイスラム世界でも大きく取上げられて、世界各地でデモが起こるなど大きな話題になりました。今回の事件は、これの延長線上にあります。

この関連話題を聞くと、いつもエスノセントリズム(Ethnocentrism)と文化相対主義(Cultural relativism)という言葉が思い出されます。文化相対主義というと、ある文化(例えばイスラム社会)の人権侵害などを防げないなどの反論が予想されますが、文化相対主義は、必ずしも、ある特定の文化を擁護するわけではなく、偏見を排除した上で分析をする態度と思うので、僕はこれからの時代に必要な態度だと思ってます。レヴィ=ストロースは『親族の基本構造』の中で、異なる文化における共通の構造を抽出して見せましたが、彼が唱え始めた構造主義が現代(ポスト・モダン)における思想の世界を席巻したことを考えると、また、エスノセントリズムが究極的にはホロコーストを生み出す危険性があることを考えると、これからのグローバル化時代には不可欠なパースペクティブだと個人的には思います。この辺りは、また別途、考えをまとめてから何か書けたらいいなと思います。

一緒に住んでいるデンマーク人のジャーナリストは、デンマークやノルウェーの新聞とTVから、ひっきりなしに取材要請が入っているみたいで、今日は一日中街を駆け回ってました。

あ、あとNWFP(North West Frontier Province)州政府とタリバン(スワットをベースにしている、俗にPakistani Talibanと呼ばれる集団)の間で、先日、ある種の平和合意が結ばれました。なので、今回の事件は、タリバンの仕業ではないはずです。もしタリバンの仕業であれば、結んでいきなりの平和合意の条件違反になるので、パキスタン政府が黙ってないはずです。BBCではアルカイダの仕業ではないかと、事実をつなげることでほのめかしてました。この平和合意の、アフガニスタンとパキスタンに対するインパクトも興味深いところです。
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by aokikenta | 2008-06-03 03:34 | 日記(イスラマバード)
2008年 06月 03日
サマータイム
2008年6月1日~8月31日の3ヶ月間、パキスタンではサマータイムが導入されることになりました。
これまでGMT+5(日本はGMT+9なので時差4時間だった)のですが、この期間は、GMT+6(日本との時差3時間)になります。

色んな人と会話してても、何時に会おうと約束する時には「新しい時間で!」と強調する必要があるので、当分はある程度の混乱が予想されます。

デメリットもありますが、確かに、夜8時近くになっても明るいのは嬉しいですね
(夜8時というのは、5月31日以前の時間で言えば夜7時のことで、それくらいに日没があるのです)。
サマータイムのおかげで、朝起きた時間から晩御飯を食べ終わる時間まで、太陽が出っぱなしでちょっと贅沢な気分です。
全体的に見て、社会的にメリット・デメリットどちらが大きいのでしょうか。
日本にはない制度なので、よく見てみようと思います
(イギリスにあったかどうかは、もう忘れてしまいました・・・)。
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by aokikenta | 2008-06-03 03:05 | 日記(イスラマバード)