カテゴリ:(番外編)エジプト旅行記( 8 )

2005年 07月 19日
2005年7月11日(月) 「1日目 ミラノ泊」
 「えっ、また旅行行くの?エジプト!まじ!?旅行で?それとも研究と関係あるの??」

 旅行へ行く前に、何度となくされた質問である。旅行後には「旅行行くの?」の部分が「旅行行ったの?」に変わっただけで相当同じ質問をされた。どうやら私の周りの人間で、私ほど旅行をしている奴もあまりいないらしい。基本的に、大学院生といえば家と図書館の往復をしているものである。それ故、旅行へ行くということ自体が珍しいのだ。しかも、全ての講義が5月末に終わり、修士論文に取り組んでいるとされている時期だけに、こんな時期に旅行、という驚きもあるみたいだ。更には、僕にとって留学中の旅行はこれがはじめてではない。その事実が友人達の驚きに拍車をかけた。去年の11月にあった最初の読書週間に行ったアイルランド一人旅を皮切りに、今年3月の読書週間にアメリカ人とクロアチア人の友達と行ったクロアチア贅沢旅行、イースター休暇に行った北アイルランドスタディトリップ、メキシコ人とドイルへコンフェデ杯観戦旅行、そして、それ以外に日本に一時帰国もしている。数えてみればなんと1年に5回も旅行、しかも海外旅行をしているので、冒頭の質問も納得なのである。ここでは、自分が旅行へ行く事を正当化するつもりはない。ただ、こうして友人達の羨望と冷たさの入り混じった眼差しを肌に突き刺さるほど浴びながらの決死の旅行であったことを伝えたかったのだ。

 さて、今回の旅行のメインは、私の大学時代の友人Hとの再会だ。大学時代に同じ学科に所属していたHは、心から親友と呼べる友である。彼は大学在学中、農業をすると一念発起して、石川県の農家へ住み込んで修行。その後も、四国でのボランティアなどをして努力を続けた結果、青年海外協力隊の野菜隊員としてセネガルで2年間働くことになった。今回の旅行は、その2年間のセネガル勤務をこの7月で終えることになっていた彼から、どこかへ一緒に行かないかと誘われて実現した。もともとはトルコへ行く予定だったが、渡航制限がありやむなく断念せざるを得なくなった。代わりといってはなんだが、日本からは遠くてなかなか行けない場所で、かねてから行きたいと思っていたアラブ圏にある国であるエジプトに行く事に、話し合って決定した。

 そうした経緯であったから、2人旅になるはずであった。はずであったのだが、出発の前々日になって事情は急に変わった。Hと同期隊員で村落開発普及員をしている女性のMさんと、一緒に行く事になったのだ。Hから来たメールによれば、Mさんは以前スペインを一人旅していた時に強盗に会い、とても怖い思いをしたので、できれば誰かと一緒に旅行したいと思っていたところ、ちょうどよくHがエジプトに行くという事を知り、一緒に行く事をお願いしてきたのだ。旅の仲間は多い方がいい。Hが、もう一人くるけどいいかな、とメールを送ってきたので、喜んで了解した。というわけで、今回のエジプト旅行は、私とHとMさんの3人旅である。
 
 11時48分、ブラッドフォードインターチェンジ駅発の電車に乗り、マンチェスターへ向かった。今回は、マンチェスター発ミラノ経由カイロ着でチケットを手配した。セネガルから来るH達は、アリタリア航空のミラノ経由便で来る事になっていたので、僕はそれに合わせてミラノ経由でチケットを買っていた。しかもミラノ~カイロ間は同じ飛行機である。行きの飛行機で旅の予定を立てようということになっていたので、そういうチケットを手配した。ただし一つ問題があって、それはちょうどいい乗継がないことであった。仕方なく、私は前日にマンチェスター空港からミラノへ行き一泊することにした。13時45分頃、空港に到着。16時15分発の飛行機に乗るには丁度いい時間だ。ここまでは順調、と思っているところで、突然、火災報知機が空港内で鳴り出した。空港内は一時騒然となった。

 出発の4日前の7月7日にロンドンで爆弾テロが発生した。計50人以上の死者を出したこのテロにより、イギリスの人々は神経質になっていた中での、空港での火災報知機である。建物の中に居てはいけないということで、全員外へと避難するよう指示された。待つ事、30分くらいであろうか、結局はレストランのキッチンで何かを焦がしたか何かが原因であった。人騒がせなものだ。

 予定通り、16時15分にマンチェスターを出発。19時45分にミラノ・マルペンサ空港へ到着した。今日泊まる宿を予約していないので、空港内のツーリスト・インフォメーションで値段を聞いてみた。空港近くのホテルはいくらくらいか聞いてみると、安くても70ユーロ(約9,600円)だという。そんなに払えるわけがないので、他に安い宿はないかと聞いてみた。すると、ミラノ駅の近くには安宿があるらしい事がわかった。空港から駅まではどれくらいなのかと聞いてみると、驚いた事にバスで1時間かかるという。念のため、他のデスクで聞いてみたが、やはり空港近くのホテルは高く、安い宿に泊まりたければミラノ駅の近くまで行かなくてはならないと言う。バスが片道5ユーロ(約686円)なので、往復の運賃10ユーロを足してもまだ安い宿でなくは、ミラノ駅へ行く意味はない。フランクフルトではユースホステルが16ユーロと24ユーロだったので、ミラノでも間違いなくあると踏んで市内にあるミラノ駅行きのバスに乗る事にした。

 予定通り1時間ほどで到着。すでに夜9時ごろだ。早速、いくつかの宿に値段をあたってみる。しかし、どこも70ユーロほどするではないか!せっかくバスに乗って1時間かけてはるばる市内まで来たのだから、もっと安い所でないと泊まらないと決め、さらに値段の調査を続けた。固まってホテルがあるのかと思っていたが、1件1件がけっこう遠い。45分ほどかけて、5件ほど聞きまわっただろうか、どこも安いホテルが見つからない。諦めかけていた時、1件の安そうな宿が見つかった。奥まった入り口を通り抜け2階に上がると受付があった。値段を聞いてみると30(約4,118円)ユーロだという。部屋を見せてもらうと、お世辞にも綺麗とは言えないものの、悪くない。素泊まりで30ユーロは決して安くないが、ミラノの相場はフランクフルトよりも高いようだ。それに、歩き回って少し疲れている。泊まりますと告げ、部屋の鍵をもらった。

 宿に荷物を置くと、晩御飯をまだ済ませていない事に気付き、外へでかけた。すでに夜の10時を回っているためか、薄暗い。値段を聞き回っていた時にみつけた中華料理屋へ入った。後に、Hから何でイタリア料理を食べなかったんだ、と質問されたが、どうしても中華が食べたかったのだから仕方がない。炒飯、回鍋肉、スープを頼む。以外に全ておいしく、きれいに平らげた。満足して部屋に戻り、シャワーを浴びる。明日は6時30分に起きなくてはならないので、本も読まず、すぐに布団に入った。今回の旅では、どんな出会いがあり、どんな感動が僕を待っているだろうか。
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by aokikenta | 2005-07-19 05:00 | (番外編)エジプト旅行記
2005年 07月 18日
2005年7月12日(火) 「2日目 カイロ到着」
 6時30分起床。7時20分のバスに乗り込んだ。バスの中で熟睡し、気付けばちょうど1時間でミラノ空港に到着した。フライトは10時20分なので、時間はちょうどよい。問題は、Hらと会えるかである。前日に電話で話した時は、チェックインカウンターで会おう、ということになっていたのだが、よくHらのフライトスケジュールを見てみると、乗り継ぎの時間が1時間ほどしかない。これは、おそらくミラノで再チェックインする必要はないだろうと思って、そうそうにチェックインを済ましてゲートへ行こうかと思った。しかし、やっぱり出てくるかもしれないとの思いも捨てきれず、1時間前まで粘ってチェックインカウンターに居てみた。しかし、やはり来ないのでゲートへと急いだ。

 フライト出発の30分前にゲートに到着して辺りを見回しているちょうどその時に、HとMさんはやって来た。久しぶりの再会。抱き合って再会を喜んだ。なんでも、セネガル発のフライトが到着するのが少し遅れたので、ギリギリ間に合ったということのようだ。いずれにしよ、コンタクトを取れない状況で、会えないなどの手違いがなくてよかった。

 フライトは少し予定の10時20分を少し遅れて出発した。機内では、3人で旅行のプランを話し合った。有名なギザの3大ピラミッドやルクソールへ行きたいという点では3人が一致したが、それぞれに好みが分かれる部分もあった。例えば、Hがパピルスの体験学習に行きたいと言う。かと思えば、Mさんはモーゼの十戒で有名なシナイ山へ行きたいと言う。話しても埒があかないので、グレーゾーンを残したまま概ねのプランだけを決める事にした。

 午後3時15分にカイロ到着。銀行でとりあえず必要になると思われる分だけ両替し、入国審査の行列へ並んだ。すると偶然にも、これからエジプトで青年海外協力隊の仕事で赴任する3人組の女性に出会った。世の中狭いものだな、とつくづく思った。なんでも協力隊では入れ替わりの時期が1年に3回あり、この時期はその3回の内の1回らしい。これから2年間働く人間と、2年間働いた人間。端からみているものとしては妙に感慨深いものがあった。後で、Hが言うところによれば、初々しさが眩しかった、という。さて、空港の外で調整員と呼ばれる協力隊員をお世話する人が車で待っているという。挨拶だけして行こうか、ということで会って会話をしている内に、「よかったら市内まで乗っていけよ」ということになった。これは幸運だった。なにせバスの乗り方もどこへいくのかも良くわかっていなかったのだ。お言葉に甘えて、乗せてもらう事にした。 

 車内では、協力隊の話題で盛り上がっていた。よく考えたら、私だけが協力隊関係者ではないことに気がついた。エジプト人のドライバーさん、調整員の方、3人のこれからエジプトに赴任する女性、それに2年間のセネガル勤務を終えたHとMさん、私以外の全員が関係者なのだ。何だか居てはいけないような気分になり、終始黙っていた。黙っていてもすることがないので、車窓から景色を眺めていたのだが、眺めている内にすごいところへ来たな、といよいよエジプトに来たのだという実感が沸いてきた。まず、走っている車のほとんどがかなりオンボロなのである。ドアがへこんでいるくらいは当たり前で、バンパーがつぶれている車、人がやたら乗っている車など、見ているだけで飽きない。それに、道路わきのいたる所にモスクがある。どれも、観光名所なのではないか、と思われるような荘厳なモスクが、車で走っていると5分おきに現われるのだ。イギリスのパキスタンにいる身としてはモスクは見慣れている気がしたが、本場は大きさが桁違いである。むろん、桁違いに大きかったのは本当に観光名所かもしれない。

 車内から、庶民的な市場の様子を見ることもできた。溢れんばかりの人。男性の多くはワンピースのパジャマのようなの服を着ている。女性は人によって服装が違うのだが、やはりイスラム圏独特の伝統衣装を身に着けている。お店からは商品が道端にこぼれださんばかりに陳列されている。看板はもちろんアラビア語で書かれている。私は、なんだかこういった車窓からの景色を見ながら、初めて行った中国を思い出していた。

 高校2年の冬に、物心ついてから初めて海外へ行った。そこが中国の上海だった。初めて見る海外は驚きの連続だった。まずもって、言葉が違う。文字こそ似ているが、内容はよくわからないし、何より、外国語で話しかけられるという経験がそれまで皆無だったので、どう答えてよいかわからない。一番ショックを受けたのは物乞いである。今でこそ中国を発展途上国というのはためらわれるが、1995年当時の上海はまだ、開発がすすんでおらず物乞いが街にたくさんいた。まだ小学生にも入学していないような子供が、お金をくれ、というようなことを言いながらずっとついて来た事があった。どうしていいかわからず、お金をあげればどっか行くかなとも思ったのだが、一緒にいた父親が、「走(ゾウ)!」と大きな声で言うとどこかへ行ってしまった。中国語では、「走」が「歩く」とか「行く」というような意味らしく、「ゾウ」と言えば、どこかへ行け!というような命令になるらしいことは後でわかった。17歳の私はどうしていいかわからず、何が正しいのかわからず、ただ社会の不平等を目の当たりにして頭を抱えたものだった。

 今まさにエジプトにいながらその時のことを思い出していた。違う文字を使い、違う言葉を喋り、違う文化の中で生きてる、その単純な事実が僕を興奮させた。その興奮は、おそらく西洋人が現代の日本を訪れて感じる興奮よりも大きいに違いなかった。きっと、西洋人がちょんまげ侍のいる日本を訪れた時に感じる興奮に近い。何せ、エジプト人の格好は、中には洋服を着ている人もいるが、僕が見る限りでは、洋服の人は少なく、伝統的な衣装を着ている人の方が多かった。電気、ガス、水道などがなければ、そのまま500年前も1000年前も変わらないのではないか、と真面目に思うほど、僕には伝統が残っているように見受けられた。

 車は、カイロの中心地タハリール広場に到着し、僕等を降ろしてくれた。お礼を言って、地球の歩き方を見て、泊まろうと決めていた「Islamia House Hotel」にチェックインした。Mさんのシングルルーム料金と、Hと僕のツインルーム料金を足して3で割っても1泊30エジプトポンド(約584円)なので、恐ろしく安い。部屋は8階にある見渡しのいい部屋を与えられた。とても眺めが良い。カイロ考古学博物館が右手に見え、正面にはタハリール広場を見下ろす絶好の場所だ。荷物を降ろして少しゆっくりとすることにした。
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 夕食は、近くにあるエジプト料理屋に入る事にした。とても雰囲気のいいレストランで、サービスも悪くない。僕はチキンケバブを頼んでみた。Hはエジプト名物の鳩を頼んだ。少しもらったが、淡白でそんなに強い味のある肉ではなかった。なかなかおいしい。その他にもモロヘイヤのスープなどを頼んでみたが、全てそれなりにおいしい。

 宿に戻ったら、疲れのせいか、ビールを飲んだせいか、とても眠くなってきた。エジプトの喧騒と熱気と混沌に包まれながら眠る・・・。旅は始まったばかりだ。 
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by aokikenta | 2005-07-18 06:50 | (番外編)エジプト旅行記
2005年 07月 17日
2005年7月13日(水) 「3日目 ハン・ハリーリ散策」
 カイロ観光にあてようと決めた一日。まずは、事務的なことを終えようということで、残りの滞在をお願いする旅行代理店に電話した。実は2日目に調整員の方から、日本人が経営している旅行代理店を教えてもらっていた。7日くらいの旅行では、チケットを押さえることなどに時間を費やすとあまり見て回れないのではないかとの助言に従い、3人で話し合った結果、お願いする事にした。たしかに、一人旅ならいちいち交渉しながら旅行するのが楽しいが、3人くらいの旅で、期間も短いとなると、やはり最初に交通手段だけ決めてしまったほうが、無駄なくスムーズに行くだろうということに落ち着いた。そういうわけで、電話を朝一で入れたら、チケットの手配結果を折り返し待つ事になった。こちらに来てわかった事だが、イギリスで使っているヴァージンモバイルはエジプトでも使えた。ヴォーダフォンくらいの会社なら使えるだろうとは思ったが、ヴァージンでも使えた。グローバリゼーション恐るべし。

 電話を待つ時間がもったいないので、カイロ・アメリカン大学(AUC)に行く事にした。これは僕の強い希望で行かせてもらった。AUCには世界でも珍しい「強制移民と難民学(Forced Migration and Refugee Studies)」というプログラムがある。前から興味があり、エジプトに行く際には是非訪れたいと思っていたのだった。幸い、タハリール広場のすぐそばにあり泊まっているホテルから徒歩5分で行けるところにあった。

 人に道を聞きながらなんとか、目的のプログラムを担当する受付までたどり着けた。突然訪れたにも関わらず、プログラムに興味があり話を聞きたいと言うと、丁寧に説明してくれた。コースの事もよくわかったし、何より、大学がある環境を身をもって体験できたことがよかった。

 まだ連絡がないので、観光を続ける。次は地下鉄に乗って2駅のアブディーン宮殿である。1847年に建てられた宮殿で、現在は大統領府として使われている。建物の一部を博物館としているということで行ってみた。展示内容は、大体が大統領に贈られた贈答品である。主に銃や剣などの武器が多かった。面白い事は面白かったが、他にもやりたいことがあったので、特に今日はカイロ考古学博物館に行こうと決めていたので、さっさと回ることにした。

 そういえば、地下鉄に乗った時にとんでもない間違いをしてしまった。チケットを買ってホームに着くと目的の電車が来ていたので、飛び乗った。間に合った、と安心して周りを見渡してみると、なんだか様子がおかしい。よく見てみると、なんと車内には女性しかいないではないか!小さい子供を除いて全員が女性という状況の中に、日本人の男が2人。穴があれば隠れたい気持ちがしたが、電車の中に逃げ場があるわけではない。わずか2駅なので少しの間だけ我慢することにした。いや、我慢しているのは彼女らの方かもしれなかった。電車を降りてから、「女性専用車両だったね」と3人で苦笑い。イスラムの国ではしてはいけない事がたくさんあるが、女性が肌の露出をなるべく抑えなくてはいけないことはよく知られている。この戒律の根底には、神への畏れではなく肉欲が肉体を支配した時、人は破滅へと導かれ、社会は混乱に至る、という考え方がある。この女性専用車両も、女性の誘惑により男性が肉欲によって支配されないようにという予防策に違いなかった。しかし、女性専用車両って京王線が世界初じゃなかったんだ。

 見終わってからタクシーをつかまえてタハリール広場へ戻った。距離的にはそれほど遠くないが結構時間がかかった。カイロには供給過剰と思われるほどタクシーが溢れかえっている。特にタハリール広場周辺は、常に渋滞しており、昼間は輪をかけてひどい。それにしても、カイロの交通というのは聞きしに勝るものだった。旅行ガイドや人の話では、道が渡れないほど車が多いと聞いてはいたが本当にそうであった。車がひっきりなしにやってきて、なかなか道を渡れないのである。しかも、車ですら信号無視をしてくるものだから常に注意を払っていないと危なくて仕方がない。それでは、現地の人はどうやって渡るのかというと、これが文章で表現するのが難しいほど上手く渡るのである。例えば、3車線の道路を渡る場合、これから渡ろうとする3車線すべてが車なしという状態になることは、一時的にせよ殆どない。従って、1車線ずつ渡っていくのである。一番自分に近くの車線の車どおりが少なくなってきて、渡れそうだなと思ったら、まずその1車線分だけ、渡る。そして、2車線目が渡れるようになるまで、1車線目と2車線目の間の白線の上に立ってしばし待つのである。これは、相当車通りが多い道路でも頻繁に見受けられる光景である。あらよっという具合にひらりと車を1台ずつかわす姿は、角の生えた牛を操るマタドールを連想させるに余りある。そんな具合であるから、道路渡り素人の僕にはカイロの道を渡るのには少々手こずった。

 ホテル近くの庶民的レストランで昼食をとる。エジプト名物コシャリを頂く。コシャリとは、パスタを短く切ったものと、マカロニと米を混ぜ合わせた物の上に、トマトソースとたまねぎのフライをかけて食べる料理である。エジプトの庶民料理の代表選手であり、日本人にも抵抗なく食べられる。チリソースや酢をかけて食べるのがおいしい。
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 レストランにいる間に携帯に電話があり、日程の確認などをしていたが、途中で電話がきれてしまったので、外でかけ直すことにした。話しを聞いてみると、お願いした通りとまではいかないが、大体それに近いスケジュールでチケットを手配してくれていることがわかった。明日は一日、ピラミッドを見るために空けてあるので、代金を支払うのは今日しかない。やむなく、カイロ考古学博物館に行く事は断念して、旅行代理店に行く事になった。カイロ観光は、最終日に丸一日あけてあるのでその日に来れば良い。

 タクシーを捕まえようと歩いていると、一人の日本人とすれ違った。
「こんにちは」
とこちらから挨拶する。すると、相手の方は、「こんにちは」と言った後、逆に質問をしてきた。
「協力隊の方ですか?」
なんでわかったのだろう?信じられない推理力に内心怖くなりながらも、「はい、そうです」とHとMさんが答えて、会話が始まった。なんでも、ケニアで2年間協力隊員として働いた後にエジプトに寄っているということであった。めがねをかけた若い男性で、とても気持ちの良い青年という印象を受けた。しばらく立ち話をして、別れた。しかし、これほど協力隊の人と会う旅行もそうないのではないか。

 タクシーを降り、フラミンゴホテルに到着。ここを、旅行代理店の人に、待ち合わせの場所として指定されたのだ。しばらく待っていると、関西弁を話す女性の方が現われた。お互いに挨拶を交わし、近くのビルの2階へあがった。

 手続きを済ませて、僕達はハン・ハリーリという巨大な市場へ向かう事にした。ここは、カイロの目玉と行っても過言ではないほど観光客に人気の場所である。タクシーに乗り、15分ほど乗るとそこへ到着した。

 ハン・ハリーリは上海の華亭路(ファーティンルー)のようであった。所狭しと道の両側に露天が並び、それぞれの露天には商品が雑然と陳列されている。洋服などは、さおを使わなければ取れないような高い所からぶらさげてある。狭い場所になるべく多くの商品を並べようという工夫なのだろう。その辺も、華亭路そっくりである。観光客がよく来るのか、日本人と見ると、英語でも日本語でもとにかくよく話しかけてくる。日本人観光客はよくお金を使うのだろう、
「ジャパニーズ、フレンド、フレンド」
という調子で単語を並べて話してくる。
他にも、
「バザールでござーる」
とか、
「ゲッツ!」
「山本山」
などと、誰が教えたのだか知らないが、とにかくよく喋る。

 一通り、店を見たが、お腹が空いてきたので、夕食を先にとることにした。ハン・ハリーリにある、その名もハン・ハリーリという名前の高級レストランに入る事にした。昨日のレストランもおいしかったが、ここはさらに上を行く味・サービスであった。大満足。

 しかし、さすがに値段は庶民では手の出ない値段だ。昼食のコシャリは5エジプトポンド(約100円)なのだが、このレストランだと大体一人100エジプトポンド(約2000円)くらいはかかる。日本人の感覚で言うと高くはないのだが、エジプトの物価を考えると超高級レストランといわざるを得ない。

 お店をでてから、帽子をサンダルを購入することにした。よさそうな帽子があったので、値段を聞くと、少年のような店員が
「40ポンド」
と力強く答える。
セネガルで2年間暮らし2人と相談したところ、10ポンド前後までは下がるだろうということで、もう少し低いところから交渉を開始することにした。
「5ポンド」
とこちらが言うと、
「あー、無理無理。そんなんじゃ売れないよ」
というような素振りをする。
「じゃあ、6ポンド」
とじりじりとあげる作戦に出たのだが、それでも依然として、
「40からは下げられないよ」
と強気の態度を崩さない。その後も1ポンドずつ上げて行って10ポンドまで行ったけれども、相手は態度を変えようとしない。仕方がない、もう帰ろう、と言って帰るふりをすると、
「ちょっと待った、30ならいいよ」
と突然態度を変え始めた。これはもっと下がると見て、
「30じゃ高い」
と言って、そのまま帰ろうとする仕草をすると、
「わかったわかった、20ポンド」
とどんどん下がる。
「こちらが10ポンド!」
と再度言うと、
「わかったよ、10ポンドで売るよ」
ついに目標の値段で購入することができた。
目標で買えたので、大満足だったので、その調子でサンダルも35ポンドで買った。しかし、市場では1ポンドを争って買い物をするのに、高級レストランでは惜しげもなく100ポンド単位でお金を払う俺達って一体何なんだろう、と自分達のやっていることながら不思議に思った。
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by aokikenta | 2005-07-17 08:56 | (番外編)エジプト旅行記
2005年 07月 16日
2005年7月14日(木) 「4日目 ピラミッド三昧」
 さて、今日はカイロ近郊にあるピラミッドをいっぺんに見てしまおうと決めた。事前に申し込んで追いたホテルのツアーに申し込んでおいたのだ。ツアーといっても、タクシー1台にドライバーと我々3人が乗るだけなので、要するにタクシー1日貸切ということである。1人40エジプトポンド(約800円)なので、それほど高いという事もない。7時45分に起き、軽い朝食を済ませて8時30分に受付でドライバーを待った。

 時間通りにやって来た。40代と思われる頭の禿げ上がった恰幅のいい男性で名前を「ハマダ」と言うらしい。はじめは冗談かと思ったが、みんな「ハマダ」と呼んでいるので、どうやら本名らしい。たしかに、アラブの国で「ハマダ」という発音はあり得るかもしれないな、などと考えた。とても陽気な男で、僕等を楽しませようと必死なことが伝わってくる。静かなドライバーよりも楽しそうでいいだろう。

 我々は、まずはじめに、カイロから車で約1時間のダハシュールへと向かった。途中ナイル川に架かった橋で小休止。ナイル川は水が汚いのかと思いきや、案外綺麗で驚いた。この川が4000年以上も昔から現在まで連綿と流れ続け、世界四大文明の一つであるエジプト文明を生み出したのかと思うと、感慨深いものがあった。確かに、旅を終えて感じたのは、エジプトの殆どは、生活するのが難しいような砂漠であるということ。その中にあって、当時の世界で最も高度な文明を発達させたというのは、ナイル川のおかげと行っても言い過ぎではないだろう。
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 1時間ほどで砂漠地帯に突入。券売所でチケットを買い、車でダハシュールの敷地内に入る。曲がりくねった道を抜け、まっすぐな軽い登り道をしばらく走っていく。道端には石が壁のように視界を邪魔しているのでよく景色が見えない。5分ほど走っただろうか、ようやく、道端の石がなくなり視界が開けた。と思った矢先に、正面にピラミッドが我々を待っていた。威厳をたたえたそのたたずまいは目を背けたくなるほど恐れ多いものに感じられた。我々は、その「赤のピラミッド」と呼ばれるとても美しい形をしたピラミッドを見学することにした。

 このピラミッドは中に入って見学することができる。100段ほどの階段を登り、入り口に到着。門番に「アサラムアライコム」と挨拶をして中に入った。いきなり50メートルほどの狭い下り坂があり、これをくだるのが相当きつかった。下まで降りると、中は意外と広い空間になっている。ひんやりと石の涼しさが肌に感じられる。到着した部屋とは別に階段を登るともう一部屋存在する。今となっては何もないが、ピラミッドが造られた当時は、財宝で埋め尽くされていたことだろう。

 続いて、「屈折ピラミッド」と呼ばれる一風変わったピラミッドを見学。このピラミッドは、途中で建設の計画を変更したらしく、地面から何十メートルかまではすごく急な角度なのだが、あるポイントからは緩やかな角度になっている。ガイドブックによれば、建築途中で地盤沈下があり変更を余儀なくされた、ということであるが、地面からそのポイントまでの角度で建設を続行していたら、不安定で危なっかしいピラミッドになっていただろう。でも、この建築計画変更のおかげか、まだピラミッドは存在しているので、その決断は正しかったのだろう。

 続いて、サッカラというエリアへ移動。また、券売所でチケットを購入し、ピラミッド近くまで車で
移動した。ここは、ジェセル王のピラミッドで有名な場所である。このピラミッドも、僕がイメージしていたものとは違い、ピラミッドの壁面が階段状になっている。後にこれが、ギザにある美しい形をしたピラミッドへと進化したということなので、それ以前に造られた実験的と言ってはしつれいかもしれないが、そういったピラミッドである。
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 中には入れないので、周りをぶらぶらと歩いていると、エジプト人のおっさんが、「案内してあげるからついて来い」と熱心に僕等を勧誘する。これは、後でバクシーシ(チップのようなもの)を取られるに違いないと思ったので無視して振り切って行こうとしたが、なおも熱心に誘ってくる。「普通の人では見られない場所へ案内してあげる。私は鍵を持っている。そこにはすごい壁画があるぞ」と言ってくるので、面白そうじゃないか、と急遽予定変更してついて行くことにした。

 通常の観光客が行かないような道へと入っていく。こんなところに来ていいのだろうか、でもガイドが連れてきたんだから大丈夫なんだろう、と思いながらなおもついて行くと、神殿の陰にある小部屋に連れて行かれた。勧誘の時は鍵を持っているといっていたが、実際には鍵がかかっていない・・・。これは騙されたな、と思いつつ案内をしてもらう。その小部屋には壁一面に壁画が描かれている。色も少しではあるが残っておりなかなか、騙されたにしてはいい感じである。説明を一応英語でしてくれるのだが、何を言っているのかよくわからない。とにかく、大昔にできたこと、象形文字が書かれていることを一生懸命説明してくれる。この部屋の説明が終わると、まだあるという。結局、もう一つおなじような部屋を見せられた。もう疲れたので、じゃあこのへんで、というと、「バクシーシは?」とお金を要求して来た。わかってはいたが、最初にお金かかるというようなことを全く言っていないので、なんとなく腹が立った。3人で話して、1エジプトポンド(約20円)をあげることにした。1エジプトポンド札を渡すと、「えっ!?これだけ?」というような顔をして、これだけ暑い中これだけ説明して1ポンドはない、とまた延々と説明し始めた。面倒だったので、まるで聞こえない振りをして外に出た。

 歩いて、ピラミッドの方角へ歩いて行くがしばらくついてきた。さらに歩くと、ようやく諦めた。たしかに、あれだけ拘束されて20円はないかもな、と少し同情してしまったが、それを言い出すと街中にいる全ての物乞いには同情しないのか、という話しになってくるのでそれ以上考えない事にした。タクシーへ戻り、最寄のレストランで昼食をとる。このあたりから、僕の体調はだんだんおかしくなってきていた。

 振り返れば、朝トイレに行った時に、調子が悪いなとは思っていたのである。何も変なものは食べていないにも関わらず便がゆるくなっていたのだ。それでも午前はなんとか大丈夫だったが、炎天下の中歩き続けたせいか、昼食はほとんど口に入らなかった。肉を見ると気持ち悪くなってきて、とても喉を通りそうにない。どうも体調が悪いと仲間には伝えておいた。

 タクシーに戻ると次はパピルス博物館へ行くと言う。そこへはすぐに着いたのだが、体調はどんどん悪くなってきて、とても歩いて見て回れそうにない。HとMさんだけに行ってもらって僕はタクシーで休憩することにした。横になるとすぐに寝てしまった。

 原因はなんだったのだろうか。今でもよくわからないが、おそらく最大の原因は暑さである。日本の夏に夏バテした時のようなダルさがあったからである。エジプトの気温は平均でも40度くらいはあっただろうか。滞在中、一度46度ということがあった。イギリスは夏とは言え、20度くらいが平均だとおもうので、その差26度。体がついていけないはずである。本来体を労わらなくてはならないはずなのに、着いてから特に体への気配りをしてこなかった。また、次の原因は食あたり・水当たりだろう。特に腐ったものを食べた記憶はないのだが、水分が失われていくので、がぶがぶミネラルウォーターを飲んだし、露天で売っているフルーツジュースや軽食を食べていた。これら全ての要素が原因となり体調を崩してしまったのだった。

 1時間ほどたったのだろうか、ドライバーとHとMだんが戻ってきた。次は、ようやく本日のメイン、ギザの3大ピラミッドとスフィンクスを見に行くという。2人は盛り上がっているが、こちらはそれど頃ではない。やはり、見たいものは最初に見ておくべきである。そして同じように、食べたいものは最後までとっておかないで最初に食べるべきなんだなと、この時真剣に思った。高い授業料を払ったて学ぶ教訓がある。

 ギザにあるらくだ・馬を使ったガイドツアー屋さんに着いた。このタクシーは移動代だけを支払っているので、いく先々ではチケット代及びガイド代は必要であれば自費で払わなくてはならない。このガイドツアー屋はひどかった。さんざん、「中では見学の為にチケットを買わなくてはならない。この値段で全部込みでどうだ?」というような形で、そうとう高い値段を吹っかけてくる。ガイドブックを見てそれぞれのチケット代を足しても到底そんな値段にはならない。そうすると、その「ガイドブックは古いから当てにならない」と言い出すのである。一体何を信じていいのかよくわからないが、それでも、新料金を全部足しても儲けが出る値段で言ってきているのは確かである。30分ほど交渉は続いた。値段がなかなか下がらない。「時間がない。もうすぐで全部しまっちゃう」と時間を使って交渉を有利に運ぼうとする。時間的制約が出てくるとこちらの交渉が不利になってしまう。わかりながらも、どうしてもギザのピラミッドをたくさん見たいということで、結局、一人50ポンド(約1000円)で交渉成立した。今思えば、これがこの旅で一番のぼったくりである。

 なんにしろ、念願のらくだに乗ってギザの3大ピラミッドを見ることができた。体調は、普通の観光名所くらいならパスしたいくらい最悪だったのだが、今回の旅行の中でも最大の目玉であるピラミッドとスフィンクスを見ずしてイギリスには帰れないと思い、無理やり行く事にした。しかし、気持ちがあってもやはりきついものはきつい。らくだは結構ゆれるのでそれが気持ち悪さに拍車をかけた。帽子を被ってはいるものの、逃げ場のない暑さが体にまとわりついてくる。写真にだけはなんとかおさめて1時間30分ほどのツアーを終了した。感想を述べるのは難しい。第一に体調が悪かったのでよく見れなかったことと、すでに他のピラミッドを午前に見ていたので見慣れてしまったことが挙げられる。とても美しいとはいえ、ピラミッドはピラミッドなのである。観光に順番は大事だ。しかも、ぼったくられた、という精神的ダメージがあり楽しみきれなかったというのも正直なところだ。実を言うと、我々を乗せたらくだは券売所に寄らず裏口から敷地内へ侵入したのである。入ってすぐに警察官が乗ったらくだがやって来て、賄賂を要求してきた。我々のガイドは何もなかったかのように、握手をかわした。その握手を交わす手の隙間からはお金の札がチラッと見えた。そう考えると、この警察官に、仮に10ポンド前後渡していたとしても、我々からの収入150ポンドからの差し引きをを考えると相当の利ざやがあったはずである。らくだの飼育費、ガイドの日当、くらいしかその他の支出はないはずである。その事実が僕から楽しみを少しだけ奪ってしまった。

 ツアーが終わると、すぐにホテルへ戻った。僕は夕食も食べず、すぐにベッドに横になると寝入ってしまった。
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by aokikenta | 2005-07-16 04:15 | (番外編)エジプト旅行記
2005年 07月 15日
2005年7月15日(金) 「5日目 アブ・シンベル神殿」
 昨日は早々に就寝したものの、今日はエジプトの最南に位置する場所、アブ・シンベルまで行かなくてはならないため、午前2時30分に起床。寝た気がしない。タクシーでカイロ空港まで行き、午前6時のフライトで中継地点であるアスワンまで向かった。この日のスケジュールは、午前6時のエジプト航空のフライトでアスワンまで行き、そこで12時35分のアブ・シンベル行きまで待たなくてはならなかった。旅行代理店の人いわく、予約ができなかったとのことで仕方なく、空港で時間を潰すつもりでいた。しかし、実際にアスワン空港へ行ってみると、時間はまだ7時過ぎ。これから5時間以上も空港で待つのは全く持って馬鹿馬鹿しい。市内まで行って遊ぼうか、とも話したのだが、バスで1時間ほどかかる上に荷物を置く場所がない。途方にくれているところでいいアイデアが浮かんだ。

 電光掲示板を見ていると、アブ・シンベル行きの飛行機に、12時35分の前に、午前9時55分発というのがある。チェックインカウンターの人に、「キャンセル待ちに乗せて欲しいのですが」とお願いすると、9時30分に結果がわかるから、その時にまた来てくれと言われた。僕は、間違いなくいけると思った。アスワン~アブ・シンベル間の飛行機が満員とは到底思えなかった。それに、イギリスへ留学で来る際、マレーシア空港でキャンセル待ちをして成功した経験があった。たしか、その日は夕方にマレーシアに到着したのだが、乗り継ぎの飛行機は翌日まで待たなくてはならなかった。しかし、マレーシア航空の飛行機で深夜にロンドンへ向けて飛び立つ飛行機があることがわかったので、キャンセル待ちを申請したところ、運よく空きがあり乗る事ができたのだ。おかげで、ロンドンに着いた時間が早朝で、泊まる場所の手配も上手く行った。現地時間の到着すると、宿探しも難航するので、時間をセーブできたという以上に助かった記憶がある。

 9時25分くらいにもう一度、チェックインカウンターに行くと、先ほどと同じ男性がいた。「どうですか?」と聞くと、「空きが出たので、9時55分に乗れます」と言う。やった!!すぐにパスポートと航空券を出し、手続きを済ませた。これで、約3時間節約できた。ラッキー。

 空港でも飛行機でも、殆どの時間は寝ていた。倦怠感が取れず、食事も喉を通らない。また、何も食べていないのにも関わらずトイレが近い。最悪の状況であったが、アブ・シンベルに到着した。

 空港に来ていたエジプト航空のバスに乗り込み、アブ・シンベル神殿へ向かった。予約していたホテルがその神殿の近くにあるので、そこから歩いていけばいいことは事前にわかっていたからである。バスの中は日本人ばかりであった。白髪の60代に見える優しそうな男性と話しをすると、なんと日帰りでルクソールから来ているという。アブ・シンベルには神殿以外の見所は皆無である。それ故、観光客はこの神殿を見るためだけにやってくるわけだが、一つの場所を見るためだけに一泊するのはもったいないと考える人はけっこう多いようである。その男性は、ツアーのオプションを選択して、日帰りでアブ・シンベルに来たという事であった。

 神殿前に到着すると、すぐにホテルへ向かった。歩いて3分くらいにそれはあった。名前は、ネフェルタリ・ホテル。変な名前だなと思ったが、よくよく調べてみると、アブ・シンベル神殿を造ったラムセス二世の御后がネフェルタリという名前なのだそうだ。格式ある名前だったのですね。

 4つ星ホテルという割には、なんだかくたびれているホテルであった。オフシーズンということもあるのだが、活気というものが全く感じられない。僻地にあるホテルはどこもこんなものだろう。チェックインをすると、僕は横にならせてもらった。HとMさんは、昼食を取りに行くと言ったのだが、とても喉を通りそうにない。ベッドに横になるとすぐに寝てしまった。

 気がつくと、二人も部屋で寝ていた。起き上がって、机の上を見てみるとハンバーガーが置いてある。「これどうしたの?」僕が聞くと、「何か食べたほうがいいと思って買ってきた。食べれないなら残せばいいし」とH。こういう風に人に優しくされたことがないので嬉しかった。Hは優しい男である。昨日も、気持ちが悪いので、部屋へ帰らせてもらったのだが、夜中に目が覚めると枕元にマンゴージュースが置いてあった。どちらも、おいしく頂いた。ありがとう。

 夕方の4時30分になると、3人で起き上がり、神殿を見に行く事にした。明日も朝は早いので、今日中に見なくてはならないのである。しかも今日は何もしていない。チケットを買い、曲がりくねった道を行くと、それはあった。巨大なラムセス二世の石像が4体。その巨大さに言葉を失う。
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 この神殿は3000年ほど前に、伝説的なファラオであるラムセス二世が建設した。一度は、砂に埋もれてしまったものの、19世紀に再び発見されることになる。その後、1969年代にはアスワンダム建設に伴い、水没の危機に見舞われたのだが、ユネスコの協力で移築に成功し、現在に至っている。中は、壁一面に壁画が描かれており、当時の文化レベルの高さを感じることができる。紙もあり、文字もあり、世界観もあり、これだけの建築物を作ることができる文明ですら滅亡するのだから、平家物語の序文というのは真実を語っている。

祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
娑羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
おごれるひとも久しからず
ただ春の世の夢の如し
猛きものもついにはほろびる
ひとえに風の前の塵に同じ

そう考えると、現代の帝国であるアメリカもいつかは滅びるのだ、ということが肌で感じられるような気がした。実際に、ここ最近のアメリカは多極化主義へと変化しつつあると指摘する人もいるので、すでにその兆候は始まっているかもしれない。

 それにしても、全てのものがいつかは滅びるのだとしたら、人の一生には一体どんな意味があるのだろうか、と真剣に考えてしまった。仮に100年生きるとしたとしても、そんなものは大局的に見たら、まばたきのようなものである。それに、その間に自分が得た形あるものなどは、自分が死んだ時点で全て意味のない物になってしまう。例えば、会社を設立して大金持ちになったとしても、死んでしまえばそのお金を使う事はできないし、買った車も家も、全てはいつか消えてなくなってしまう。それも何十年という短い期間で。それでは、何か無形のものを追い求めて生きることの方が意味がある生き方なのだろうか?学問を追い求めて生きたとして、その成果が後世の人々生活に、そして記憶に残るか、と問うてみると、答えはイエスのように思われる。例えば、社会科学というのは18世紀の西ヨーロッパを中心に発展してきた。人権という概念にしても、ロックが18世紀に初めて、Natural Rightいうものを提唱して、それが徐々に法的に整備されて、1948年の世界人権宣言などを経て、現在の世界の人権侵害を防止する役割を果たしている。たしかに人類にとって役立っているように見える。

 しかし、人類にとって役立つという事自体が、我々が存在している世界の中で、何か意味があるものなのか、と疑いの目を持ってしまう自分もいる。人類が発展しようと、どうなろうと、いつか人間は死ぬし、人類は滅びるし、全てが滅亡するわけであるから、頑張っても意味がないのか?しかし、そこで何も発展へ向けての努力をしないという結論に至るのはあまりにも消極的なのではないか。やはり、生まれたからには何か周囲にとって、後世の人にとって役立つ人間になりたいし、記憶の中に残っていたいと思う。生きている証というものを刻んでいたいと思う。そう考えると、人生へ対する態度が消極的になるか積極的になるかで、人生は大きく違ったものになるように思えてくる。僕は、坂本竜馬ではないが、事を成すために人生はある、と信じている。熱く生きていたいと思うのだ。

 さて、この神殿以外にも、敷地内には、ホテルの名前にもなっている第一王妃ネフェルタリを祭った神殿もあり、そちらも荘厳な造りである。我々は大満足で、神殿を後にした。

 この後、「アブシンベル神殿 音と光のショー」なるものを見ることにしていたので、カフェで休憩することにした。歩き回っていたので、日陰で飲むジュースがおいしい。 

 夜8時になると、ショーは始まった。学術的に価値のある神殿にこんなに光を当てたりしていいのだろうか、と心配になるほどショーでは光を当てまくっていた。なかなか面白いと思ったが、特に素晴らしいと思ったのは、戦争の再現シーンであった。当時のエジプトは繁栄を極めていたので、周辺国からの侵略が絶えなかったという。そんな中で、ヒッタイト国から攻め込まれた時にラムセス二世が先頭に立って戦い、国を守ったというエピソードがある。このショーではその様子を、壁画を大きくしたものを神殿に映し出しながら音をつけて楽しませてくれる。当時の戦いの様子がそのまま伝わってくるようであった。しかし、平和学を勉強していて戦争シーンに感動するというのは如何なものか。

 ショーを見終えると、ゆっくりと歩きながらホテルへの帰路についた。星を眺めながら、さすがに、こういうものを見た後は、好きな人と一緒にいたいな、などと思ったりした。ホテルに着くと、夕食をとることになったが、まともな食事を食べる気がしなかったので、スイカだけ食べる事にした。この時のスイカは格別おいしく感じられた。結局、今日は、お昼に食べたサンドイッチの一欠片と、このスイカだけであった。部屋に戻ると、シャワーを浴びて、すぐにベッドに横になった。旅は、Aメロ、Bメロを経て、そろそろサビに差し掛かっているようだ。
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by aokikenta | 2005-07-15 08:15 | (番外編)エジプト旅行記
2005年 07月 14日
2005年7月16日(土) 「6日目 アスワン」
 アブシンベル滞在はたった一日で切り上げて、今日は少し北に位置するアスワン観光である。午前6時過ぎに起床し、8時30分発の飛行機へ乗った。なんだか、まとまって寝れない旅行である。機内はほとんど人がおらず、がらがらだった。

 アスワンへ到着すると、まずかばんを置く場所が問題になった。昨日ホテルで知り合ったエジプトに住む日本人の女性の情報によると、アスワン駅に行けば、ロッカーがあるのではないか、ということであった。我々はさっそく、駅に向かう事にした。タクシーを拾い、駅へ行こうとしたが、ここで一つ問題が発生した。空港を出ると、大勢のタクシードライバーに取り囲まれた。一気に人だかりができ、値段の交渉開始である。

 はじめ、そこにいたドライバー全員が同じ値段を言ってきた。そして、みなが、「これは良い値段だから乗りなさい」と言うような事をいうのである。どうやら順番が決まっているようで、その値段で乗る、と言ったら、順番待ちをしている次のドライバーの車に乗る事になるようだった。交渉をしても拉致があかない、とおもっているところへ、後からやってきたドライバーが、5ポンド安い値段を言ってきた。よしそれにする、と答えると、取り囲んでいた人々は騒然となった。絶対そいつの車に乗ってはいけない、そいつは区域外からやってきたドライバーなんだ、と気も狂わんばかりの様子で訴えかけてきた。よく話しを聞いてみると、後からやって来たドライバーのナンバーは、この地域で走っているタクシーとは違うナンバーがついていて、本来ここにいるはずではないタクシーなのだと言う。いきなりやって来た奴に仕事を横取りされて黙っているわけがない。このままでは袋叩きになるのではないかと思っているところへ警察がやってきた。どうやら、ドライバーの一人が呼んできたらしい。結局、この地域のタクシーへ乗車することになった。どうなる事かと思った。

 駅には、情報通り、ロッカーがあった。荷物を置くと、今日の予定を3人で話し合った。午後6時30分のルクソール行きの電車に乗る事は決定していたので、とりあえず2箇所を見てみることにした。まず始めに、タクシーでヌビア博物館へ。この地域(ヌビア地方)の歴史を紹介する博物館で、まだ出来て間もないようで綺麗な建物だ。1時間ほど見物して外へ出た。どこかでお茶をしようということで、オールド・カタラクトというエジプトで一番と名高いホテルへ行く事にした。ここは、アガサ・クリスティが滞在していたということで有名で、実際、入り口を抜けるとよく磨きぬかれた内装がゲストを歓迎してくれる。英語も全く問題なく通じるなどサービスもいいし、落ち着いた雰囲気は外界と別世界である。テラスで軽い昼食をかねてドリンクを頼む事にした。食欲は少しずつ回復してきたので、サンドイッチを一つもらい食べる事ができた。しばらく、そこで涼しい風を感じながらゆっくりとした。正面にはナイル川が流れ、その脇には、同じ系列ホテル、ニュー・カタラクトホテルのプールが見える。本当に外界とは隔絶された世界だなと感じた。多くの欧米人はこういったホテルに泊まり観光地を見て周り、母国へ帰るのだろう。

 それについて、何も批判するつもりはないのだが、一つ気になる事があった。日本人は紫外線を避ける意味でも、大抵の人は長ズボンをはいて、帽子を被るなどしている。中には長袖を着ている人もいる。それにガイドブックなどを見るとイスラム教についての記述があるので、エジプト人の立場に立って、なるべく肌の露出を避けようと考える人が多いように思う。一方で、あくまでも一般化した話しなのだが、ほとんどの欧米人は、男性は半袖・短パン、女性はキャミソールにショートパンツという服装であった。僕はそういった女性を見て、強く刺激を感じるということはないが、見慣れていないエジプト人にとってみればとても強い刺激なのではないかと思う。そう考えると、全く相手の文化を理解しないで、そういった格好で町を歩き回ることに対して違和感を感じざるを得なかった。こうした事はとても些細な事だが、イスラム原理主義者達にとっては容認せざるを得ない事なのではないだろうか。イスラムの地をレイプされているような心持がするのではないか。とても、日本人・欧米人が集まる観光地を爆破するテロ行為を容認することは出来ないが、何が原因でテロが発生するのかという事を考える必要があるし、イスラム教というものをもう少し理解していく必要性があるのではないかと思う。

 ホテルを出て、次はフィラエ神殿へ向かった。ここもアブシンベル神殿同様、アスワンダムの建設で水没してしまう場所に元々あったのだが、移築されたのだという。小さな島の上にあるとても美しい神殿で、ボートでないと行くことができない。ボート乗り場へ行くと、決まった値段がないことがわかった。また交渉である。ちょうどよく、そこにいたオランダ人カップルが声をかけて来て、「5人グループだと言えば、安くならないかな?」と提案をしてきた。グループディスカウントもあるかもしれないと思ったので、5人いるからということで交渉をすることにした。そうすると、値段ははじめよりも下がったので、その値段で乗る事にした。

 そのオランダ人カップルの男性の方は、オランダで法学を勉強しているという。女性は小学校の先生で、二人とも休暇をとって来ていると言うことであった。とても優しいカップルで、ボートでは楽しく会話することができた。Mさんは、いい人に会うとその人の国に行ってみたくなる、と行っていた。その通りだなぁと思った。

 フィラエ神殿は素晴らしかった。これまでにそれなりに歴史的建築物を見たが、それでも素晴らしいと思えたのは、やはり立地条件が大きい。ボートではないと行けない、という条件が神殿を特別なものにしていた。それに、門にあるレリーフが良かった。まるで神々が生きているかのような生き生きとした描写が気持ちいい。
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 見終わると、ボートで陸へ戻った。待たせておいたタクシーに乗り、駅前へ帰る。電車が来るまでまだ時間があるので、フルーツポンチを食べる。最高にうまい。やはり暑い国で食べるフルーツは最高だ。午後6時30分の電車に乗り、アスワンを去った。滞在は一日だったが、来てよかった。
 
夜の10時前にはルクソールへ到着した。旅行代理店経由でホテルは予約しておいたので泊まる場所の心配はなかった。しかし、晩御飯を食べていなかったので、ガイドブックにある日本食レストランへ行く事にした。体調は以前として思わしくなかったが、日本食ならば喉を通ると思ったのである。

 駅から歩いて10分ほどのところに、そのレストランはあった。宿も経営していて、その宿の最上階がレストランになっているのである。階段で一番上まで上がる(たしか6階くらいだったと思う)。階段を昇りながら見る限りでは、そうとう汚い宿であった。そのくらびれかたと言ったら、僕の少ない経験の中での話しではあるが、下の下くらいに思われた。ようやくレストランに到着するが、やはりレストランも汚い。衛生的に大丈夫だろうか、と心配になり、一緒にいるHとMさんに「このレストラン今まで見た中で一番汚いよ」と言うと、2人は何事もなかったかのように、こう言った。

「セネガルでは中の中くらいかなぁ」

やはり協力隊で途上国を経験している人は強い。全然動じていないのである。セネガルで2年間住んだ2人にとっては、これくらいの汚さはなんてことないらしい。思えば、2人は暑い国から来た事もあるが、全然体調を崩していない。市場での交渉も僕より上手だし、なんだか2人が格好良く見えた。生命力というか生活力というか、そういう力があるな、と感動してしまた。突然無人島に置いてけぼりにされて、僕と彼等のどちらが長生きするか、という事を考えるとその力は明白なものに思われた。しかし、2人が何もせずその能力を身につけたわけではない。やはりセネガル赴任当時は、相当の苦労をしたのだと言う。Hの話しでは、来た当初は熱がよく出たという。それは、食あたり水当たりによるものもあったであろうが、多くは知恵熱だったのではないか、とHは言った。知恵熱というのは、子供なんかが新しいことを覚えると出る熱の事だが、まさに、全く新しい環境に投げ込まれて、新しい文化に接した時に、頭が吸収しきれずに熱が出たのだろう。これまでの経験から、この情報はどう処理すればいいのか、脳がわからなくなってしまったのだろう。こうした経験を経て、今のHとMさんがあるのである。

 レストランでは親子丼を頼んだ。これからお米を炊くということで、30分ほども待たされてから、親子丼は出てきた。しかし、その親子丼は僕の知っている親子丼とは違っていた。それは、鶏肉とたまねぎと卵の炒め物がご飯に乗っかっている料理、であった。エジプトに来ておいしい親子丼を期待した僕の方が悪いのだが、それにしても泊まりに来る日本人に聞くなりして近づけることはできるだろう。味わってみると、やはり醤油の味が全然しない。半分ほど食べて残してしまった(僕は普段は出されたものは全て食べる)。

 レストランで食事をしていた時に、一人の若い日本人と知り合った。日焼けをした若い男性で、話しの様子から明るい性格であることを窺い知ることができた。彼は、「(従業員から)話しの相手をしてやれ、って言われちゃいましたよ」と言って話しかけてきた。そんな話しを従業員とするくらいだから、このホテルにはそれなりに滞在しているのだろう。話しを聞いてみると、とても長い旅をしている事がわかった。なんと日本を出てから9ヶ月になるというのである。南米を中心に見て回って、スペインへ到着。そしてヨーロッパ諸国を歩き、エジプトへ着いたのだ言う。自然に話しかけてくる調子や、日焼けしだ肌からは旅慣れている様子が伝わってきた。

「どこが一番印象に残っていますか?」

との質問には、

「イスラエルとイースター島かな」

と平然と答えた。どっちも多くの人は行ったことない場所だ。僕もいつか、そういった長期旅行をしてみたいのだ憧れを感じたが、同時に少しがっかりすることもあった。それは、あまりに長く旅をしすぎていて、感動が薄れている事である。彼は、エジプトには正直がっかりした、と言った。もっと遺跡とかがすごいのかと思った、と言うのである。僕は、彼ほど旅行に行っていないが、エジプトの遺跡には驚いたし、世界的に見てがっかりするようなものではないだろう、と推測する。しかし、恐らく彼は相当な量の遺跡を見、博物館を回りどれも同じように見えてしまうのだろう。それは仕方のないことであった。何事も、初めての感動を維持することは難しい。特に、彼のように長い旅をしていると、多くの新しいものを見て、それを脳は吸収しなくてはならない。感性が磨耗してしまうのは避けられない事かもしれなかった。しかし、やはり感動を大事にしたい僕としては、彼の姿を見てがっかりしたのも事実であった。

 食べ終わると、僕等はタクシーでホテルへ向かった。今夜のホテルは、この旅一番の高級4つ星ホテルメルキュールホテルである。これまで泊まったホテルが安宿と僻地のホテルだったので、そのギャップがよかったのかもしれないが、一番快適だった。部屋に着くと順番にシャワーを浴びて、ごろごろしながら翌日の計画を話し合った。このホテルは快適だから、明日の午前はゆっくりしよう、ということで明日は起きる必要がない。快適さと精神的な安心と、そして疲れも手伝ってか、すぐに寝てしまった。
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by aokikenta | 2005-07-14 09:45 | (番外編)エジプト旅行記
2005年 07月 13日
2005年7月17日(日) 「7日目 王家の谷」
 9時ごろ、Hに起こされて目覚めた。もっと寝ていたかったのだが、朝食を取れる時間が決まっているらしいので朝食を取りに行こう、ということであった。仕方なく、眠たい目をこすりダイニングへ行った。朝食はビュッフェ形式で、目移りするほどいろいろなものが置いてあった。やはり高級ホテルは朝食も豪華だ。食べ終わると、部屋に戻り、もう一度寝てしまった。おかげで体調は大分回復したようだ。

 今夜はカイロへ向けたワゴン・リーと呼ばれる夜行列車に乗るので、駅に荷物を置きに行った。アスワンと同じ要領でロッカーに荷物を預け、ルクソール観光のメインである王家の谷へ向かう事にした。王家の谷とは、トトメス1世以降の歴代の王が墓を作った場所で、お墓の数にすれば50ほどはあったと思う。ルクソールはナイル川によって、西岸と東岸に分かれており、王家の谷は西岸に位置する。日が昇る東岸は「生きる者の都」、沈む西岸は再生・復活をイメージさせることから「死者の都」というような意味合いがあるということである。

 入り口でお金を払えば、3箇所まで見られる。どのお墓にも壁画があり、壁画の保存具合が素晴らしかった。この3箇所以外にも、別料金を払ってツタンカーメンのお墓を見学した。このチケットは他の観光地のチケットと比べて値段が高く、値段が高い分だけ期待も大きかった。しかし、正直言って期待はずれだった。発掘された当時、このツタンカーメンのお墓は盗掘されていなかった為、財宝で埋め尽くされていたという。現在はその全て(ツタンカーメンのミイラを除く)が、カイロの考古学博物館に収められている。従って、お墓の中はほとんど何もなかった。ツタンカーメンのお墓だと聞かなければ、それは他のお墓と何一つ変わらないどころか、むしろ小さいくらいであった。これだけ批判すると、何も得るものがなかったのか、という話しになるが、実際はそうではない。翌日、カイロの考古学博物館に行ったのだが、ツタンカーメンのお墓を見ていたおかげで、カイロにあるツタンカーメンにまつわる展示物が、ルクソールのあの墓にあったのだ、ということがリアルに感じられた。発掘した時の、カーター卿の興奮が伝わってきた。

 我々は、王家の谷を後にすると、ハトシェプスト女王葬祭殿へ行く事にした。とても保存状態の良い神殿で、巨大すぎず見学後にさわやかな印象を残す建物だ。

 次は、ラムセウムと呼ばれる葬祭殿に向かった。本当はラムセス3世葬祭殿に行きたかったのだが、券売所で、「ラムセス」と行ったところ、相手は勘違いしてラムセウムのチケットをくれたのだった。僕等としては、そんなに紛らわしい名前の建物があるとは知らなかったので、全部の名前では呼ばなかったのである。いずれにしてもチケットを買ってしまったので仕方がなくラムセウムへ行く事にした。

 ラムセウムは観光客が僕等以外にはいない穴場的な場所だった。人気はないが、これが存外によかった。ラムセス2世(アブシンベル神殿の巨大な石像もラムセス2世)のかなり大きい石像がいたる所にあり、石柱もかなり大きい。この葬祭殿は、当時は縦に170メートル、横に260メートルあったということで、サッカーコートで言うと4面くらいあったことになる。現在は、損傷が激しく一部分しか残っていないが、当時の繁栄を容易に想像することができた。はじめ、仕方がなくやってきたのだが、案外、この日見た中で一番よかったかもしれない。

 半日近く移動し続けていたので、僕等は東岸へ帰ってホテルで休憩することにした。ボートで戻り、歩いてホテルまで戻った。少しだけ両替をして、トイレを済ませて、フルーツジュースを売る店を探す事にした。エジプトに来てから、体調を崩していた事もあって、フルーツがおいしく感じられた。それに、町をあるけばいたる所にフルーツを軒先にぶら下げたお店があったので全く不自由しなかった。ホテルから歩いて10分くらいした所にあるフルーツジュース屋さんで休憩をした。フルーツポンチを1つ注文する。一口食べてみる。冷たくておいしい。一気に食べ干す。そしてためらわずにもう一つ注文。これまた一気に食べ干した。最後は、マンゴージュースで締めくくり、大満足であった。

 この時すでに夕方の6時を迎えていたので、多くの観光地には行けなくなってしまった。少しお腹が空いた事もあって、マクドナルドへ行く事にした。エジプトに来てから、マクドナルドへはカイロで一回行った。エジプトでのマクドナルドの社会的地位は、日本でのマクドナルドのそれとは大きく異なる。日本では中学生や高校生が行く場所、というイメージだが、エジプトでは高級な食べ物の部類に入る。セットで頼むと15エジプトポンドくらい(約300円)なので、先進国の値段とさほど変わらない。それ故、現地の人々にとってはなかなか入れない場所なのである。マクドナルドとしても経営の戦略が、先進国とエジプトでは違うようである。まず、どこにでもあるというわけではない。日本のように主要な駅全てにあるということはない。代わりといってはナンだが、主要な観光地がよく見える場所には必ずマクドナルドがある。これは、おそらく集客の為に入念に選定されているので立地条件が最高なのである。例えば、ルクソールのマクドナルドは、ルクソール神殿のすぐ側にあり、3階からはとても良い景色が見渡せる。聞くところでは、ギザにあるマクドナルドからはギザの3大ピラミッドとスフィンクスがよく見えるという。その他にも、大衆レストランとの差別化を図るため、英語が話せる従業員を雇っている。おそらく大量にやってくる観光客に配慮してのことだろう。また、これは先進国のマクドナルドとの違いというわけではないのだが、冷房が効いていて気持ちがいい。少し寒すぎるというくらいに冷房が効いているので、歩きつかれた時には、また行こうかなという気分になるのである。

 マクドナルドではビッグマックセットを注文した。日本で食べるビッグマックと味は全く同じであった。当然のことなのだが、少し不気味だと感じたのも事実。なんと、ここではビッグマックを食べきることができた!体調はもうほとんど戻ったようだ。それほどすることもないし、涼しいので話しをしながら長く居座った。

 ワゴン・リーの発車は夜9時30分だったので、まだ時間があった。歩いてすぐいけるミイラ博物館へ行く事にした。ここには人間以外のミイラ、例えば、羊や猫などのミイラが展示されている。ミイラにする技術を身につけた人は、とにかく何でもミイラにしたくて仕方がなかったのかなとも思ったが、きっとそういうわけではないだろう。それなりに楽しめた。

 タクシーで駅へ行き、遅れてやってきたワゴン・リーに乗車。外国人専用の夜行列車なので、清潔で快適だ。2部屋に別れ、僕はHと二人部屋になった。夕食の後、駅員さんが2段ベッドを用意してくれた。手足を伸ばして寝られるスペースが狭い部屋に出来上がった。これには、セネガル帰りのHも、イギリス生活中の私も感心してしまった。

 シャワーはないので、手足を水道で洗ってベッドに入る。疲れからか、本を読むつもりがすぐに寝入ってしまった。もう旅の終わりは近い。
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by aokikenta | 2005-07-13 03:38 | (番外編)エジプト旅行記
2005年 07月 12日
2005年7月18日(月) 「8日目 駆け抜けて再びカイロ、そして胸に去来するもの」
 夜行列車での目覚め。生まれて初めての経験であった。6時30分ころに朝食を運ぶ駅員さんに起こされる。用意だけはしてもらったが、全然食欲がない。結局一口も食べず、また寝た。7時30分にカイロ駅到着。帰国のフライトもミラノ経由マンチェスター行きなのだが、カイロ発は翌日午前3時15分とものすごく早い。ホテルに泊まっても、ほとんど寝られないのだが、荷物を置くために、何より活動の拠点として安宿に泊まることにした。初日に泊まったIslamia House Hotelへ直行した。幸いにも部屋は空いており、トリプルルームを取ってもらった。

 荷物を置くと、待望のカイロ考古博物館へと向かった。旅の初めに、時間の都合で行けなかったので、楽しみにして行った。18エジプトポンド(約360円)払い、中へ入る。地図を見ると2階立てになっており、かなり時間がかかりそうだ。コースをざっくりと決めて、それぞれのペースで見ることにした。

 カイロ考古学博物館は凄い。展示してあるものの量がまずすごい。所狭しと学術的に貴重なものであろう物が展示されており、並べ切れなくて溢れかえっている。これは、展示できなかった物も相当あるに違いない。しかも、そのどれもが3000年やら4000年も前の物なのである。あまりに似たような物がありすぎて、当たり前のような感覚がしてくるが、展示物のどれをとっても、他の博物館でメインを張れるようなレベルのものであるのは間違いない。ミイラや棺桶などは、2階に行くとやたらめったら置いてあり、なんだか希少価値がなくなってくるが、実際は、本当に海外の博物館へ行ったらメインのアトラクションになるだろう。

 特に、2階にあるツタンカーメンの仮面と、その他の財宝は凄かった。絵で、発掘当時の様子を再現してあるのだが、あんな状態で発掘されたら、調査員は卒倒しただろう。ツタンカーメンの墓は、他の王家の墓とは異なり、3000年ほどの間、全く盗掘されずに綺麗に残っていたのである。これは、他の展示物を制してメインである理由がわかる。

 結局、4時間ほどかけてじっくりと見て回った。カイロ考古学博物館はエジプトに行ったならば絶対に行かなければならない場所である。

 午後2時くらいに外へ出て、韓国料理屋さんへ行く事にした。暑くて、あまり食欲がわかなかったが冷麺なら食べられそうな気がしたからである。ホテルに入っている「九龍」という名前のレストランへ入り、冷麺とビールを頼んだ。冷麺は辛めのものを注文した。冷たいスープをすすると、冷たさと辛さが脳を刺激し、爽快な気持ちにしてくれる。冷麺をほうばり、途中でビールを飲んで、また冷麺を食する。一気に食べた。おいしかった。日本に帰ったら、韓国へ旅行へ行こう。

 その後は、意見が分かれたので個人行動になった。僕は、ホテルへ戻り昼寝することにした。体調が回復したとはいえ、暑い中を歩き回るほどではなかった。

 夕方6時になると、HとMさんが部屋に来て、3人で、またハン・ハリーリへ行く事になった。タクシーを拾い、3日目にも行った場所へと再び行く事になった。ただ、今回の目的は、前回とは違いお土産を買う事である。午後8時に、これまた3日目に行ったレストランの前で集合、ということだけを決めて個人行動をすることにした。僕はもうすぐ留学を終えて日本に帰るので、あまり物を増やしたくなかった。欲しいものも特になかったので、目的もなくぶらぶらしていた。ただ、何も買わないのも寂しいので、Tシャツを一枚購入した。交渉の末、7ポンド(約140円)。続いて、イギリスにいる友達にあげるものを探して歩き回った。そして、パピルスでできた栞を買おうと決めた。皆、本を読むので実用的だし、パピルスというのがエジプトっぽくていい、と思った。しかし、これがなかなか上手く行かなかった。交渉しても目的の値段まで下がらない。そうなるとなんだか腹が立って、たいした値段でもないのに要らないと言ってしまう。ここまでそれなりに上手くいっていたので(ギザのらくだ屋を除く)、少し欲が出たのかもしれなかった。結局、値段に妥協できず、栞を買う事はできなかった。お土産を待っていた皆様、ごめんなさい。

 夕食は、前回も行った高級レストランで食べることにした。最後の夜は最後にふさわしく、エジプト料理で締めくくる。期待通り、味もサービスも満足だった。

 10時ごろお店を後にして、タクシーを拾った。ホテルに着いたら、荷物をまとめて空港に行くだけだ。そう思い、何気なく窓から外に目をやると、何故だかわからないが、見慣れていたと思っていた景色が、再びものすごく不思議なものに見え出した。パジャマのような服を着た男性、ナンを乗せた木の枠を頭の上に乗せながら器用に自転車を漕ぐ男、子供の手をつなぎながら道を渡ろうとするブルカを被った女性、水タバコを店の軒先で吸う男。そういった全てのものが、夜店に備え付けられたライトの柔らかい黄色で照らし出され、眼前に迫ってきた。その景色は、目に焼きついて離れず、鮮明な映像として僕の脳裏にこびりついた。
 
 ホテルに11時前に戻り、シャワーを浴び終わっても、空港に行くまでまだ小1時間あった。部屋では3人で何をするともなく、気が向いたら話しをし、ごろごろした。そうだ日記を書いておこうと思い、ノートを取り出した。

 カイロの喧騒に始まり、カイロ喧騒に包まれ終わる。夜の12時を過ぎても鳴り止まないクラクションを聞きながら、胸に去来するものを紙に書きつけようとするが、うまくいかない。満足、疲労、衝撃、そのどれもそうであり、どれも物足りない。ただ一つ言える事は、このタイミングでエジプトに来て本当に良かった、ということである。

"You are what you eat"(汝は汝の食する物のところである)

今回の旅で感じた事、驚いた事、見た事、聞いたこと、味わった事、笑った事、腹が立った事、匂いを嗅いだ事、そうした事の全てが自分の肉となり血となっていくはずだ。僕の現存在は、過去の経験によって構成されており、現在の経験は未来の自分の構成要素になっていく。知性はそれまでに食べた知的食物によって、感性は感的食物によって磨かれていく。旅は、自分の成長に直結し、自分の興味の及ぶ領域を押し広げてくれる。このタイミングで、この場所に、この仲間と来て良かった。開け放した窓から流れ込む心地よい風と、遠くに聞こえる車のホーンを耳の奥に感じながら、タハリール広場横イスラミア・ハウス・ホテルにて、僕のエジプト旅行は終わった。

※9日目は移動のみの為、省略します。
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by aokikenta | 2005-07-12 10:01 | (番外編)エジプト旅行記