カテゴリ:日記(イスラマバード)( 125 )

2007年 11月 18日
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by aokikenta | 2007-11-18 21:08 | 日記(イスラマバード)
2007年 11月 16日
Diplomatic Enclave
Diplomatic Enclaveは日本で言えば、霞ヶ関と永田町を足して2で割らないような場所だ。名前の通り、各国大使館が居を構えていて、その他にも銀行やVIPのみが入会を許される植民地主義的会員制クラブなどが軒を連ねている。今日は、午前も午後もそこに用事があって行っていた。

Diplomatic Enclaveのすぐ近くには大統領官邸があって、その前ではパキスタン軍が数え切れない警備兵を並べて厳重な警備を敷いていた。大統領官邸への道は完全に封鎖されていたのでいつもの道は使えず迂回を余儀なくされた。大統領官邸にいる警備兵の前では、欧米のメディアがひたすら写真を撮ったり、映像を撮ったりしていた。警備兵にピントを合わせて背景に大統領官邸をぼかして入れたらカッコよさそうだなぁとか一人で考えていたけど、素人が撮影して買ったばかりのカメラを没収・破壊されるのが怖かったので止めておくことにした。

そういえば、日本一時帰国中に新しいカメラを買った。買ったのは前にも紹介したEOS 40D!実は、EOS Kiss Digital Xと同じ1010万画素なのだが、映像エンジンがDIGICⅡからDIGICⅢに進化したので、起動時間が更に短縮されたり(0.15秒!)、記録画質の分類が更に細かくなったり、連写が更に早くなったりと色々な部分で改良されたことを感じる。特筆すべきは、カメラを持った時の重量感とシャッター音だ。手に心地よい重みがあって、見た目も持った感じもより豪華になった。シャッターを切る時に耳元で囁くように鳴る音も非常に心地よい。ビジバシ撮って、「退避勧告下のアフガニスタン・レポート」とか「非常事態宣言下のパキスタン・レポート」とか、もし読みたいという人がいるならやっていきたいと思う。

自分のことながら、なんか段々マニアックな方向に進んでいるような気がする。
まぁ、大人になっても楽しめる玩具(おもちゃ)が僕には必要なのだ。



アフガニスタンではCODANのアンテナをつけた白いランドクルーザーがわんわん走ってて、その中では「Heading to Location Zero」とか「Negative copy」とか「Will copy」とか「Clear, over and out」とか、先進国に住んでいわゆる普通の会社に勤めていたら一生使われることがないであろう言語が飛び交っている。街中では、ミリタリーの車両が頻繁にパトロールをしていて、セキュリティー・ガードが至る所でAK47を構えている。翻って、ここイスラマバードでは、小奇麗なトヨタやホンダやスズキの2007年モデルの新車がそこら中で入っている。カブールからやって来ると、これが同じ世界なのか、と頭がクラクラするけど、日本から来たら、イスラマバードだって発展途上国の仲間入りをしてしまうものなのかもしれない。

つまり、人間の印象というものはいつも相対的ということなのだ。幸せとか快適とかいいとか悪いとか、およそ価値判断というものは生まれつき相対的なものだということなのだ。そうしたら、多くの人にとってこの世の中を生きる上で重要なのは、相対的に自分がどのくらいのポジションにいるか、自分が上の下(じょうのげ)くらいに位置しているのか、中の上(ちゅうのじょう)くらいにいるのか、下(げ)だけどまだ中の下(ちゅうのげ)くらいになのか、という事が差し当たって重要な問題だということだ。

絶対的にいいことっていうのはあるのだろうか?そういうことはないのかもしれない。何故なら、僕達は禁断の実を食べて楽園を追放されてしまったんだから、僕達は楽園をあらかじめ奪われている。反対に、絶対的に悪いことって何?人を殺すこととか?物を盗むこととか??でも、それだって悪くない場合があるものだ。

夢と言えば、マンションを買って、車を買って、うーんうーんって答えが詰まっちゃう想像力欠乏症候群の金太郎飴にとって、幸せっていうのは何なのだろうか?それらの有形なものを手にして幸せだって言い切れる?答えはNoだ。だって、手に入れたらもっといいものが欲しくなる。欲望の塊、それが人間だ。僕だったら、何か無形のもの、生きている証拠(あかし)みたいなもの、そういうものを追いかけて生きて行きたい。



イスラマバードの事務所にはクックがいる。彼が毎日3食ご飯を作ってくれるのだ。その他にも、ここではお湯が出るのでいつでもシャワーが浴びられるし、ちょっと買い物に行こうと思ったら、いつでも気軽に出かけられる。作ってくれるのはお昼ご飯だけ、しかもオイリーなアフガン料理で、停電が頻繁に起こってボイラーがストップしてシャワーが浴びられず、行きたい場所にも絶対に簡単には行けないアフガニスタンと比較すると、天国と地獄という気がする。

夕食の後、クックがチョコ・ブラウニー・ケーキを作ってくれて、香り高いコーヒーと1本200ドルするコニャックを飲みながら食べた。僕の頭の中には「犯罪的」という言葉しか思い浮かばなかった。これは犯罪的だ、これは犯罪的だ、というフレーズが頭の中でエンドレスでリピートしていた。その傍らで、部屋の隅の方からアフガニスタンで働く現地スタッフがこちらを見ているような気がして、一瞬、本当に犯罪を犯したような気持ちになった。

やっぱり僕は病気かもしれない。



友達が面白いことを言っていた。熱い水と冷たい水を交互にかぶっていると、人間は肺炎になってしまうらしい。それと同じで、カブールとイスラマバードを行ったり来たりしてたら、どこかが炎症を起こしてしまうんじゃない、と彼女は言っていた。なんか、この話には、非常に重要な教訓が含まれているような気がした。カブールとイスラマバードを行ったり来たりして炎症を起こすとしたら、多分それは心の炎症だろう。これから始まる生活は少し心と体に負担をかけてしまうのかもしれない。急激に年齢(とし)をとらないようにしないとね。



何を書きたいんだかよくわからなくなってしまった。
雑感。いいんだそれで。
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by aokikenta | 2007-11-16 05:31 | 日記(イスラマバード)
2007年 11月 14日
ラホールの夜明け
空港を出ると、ラホールの街は霧に覆われていた。霧からのスタートよりも快晴からのスタートの方がよっぽどいいに決まってるけど、これまでいつも僕は前が見えない中を、コンパスも、海図も持たずにぐんぐん突き進んできたんだから、それも悪くないんじゃないかなって思う。東京本部からの出張者2人と僕を乗せたタクシーは、秩序のあまり見られない混沌とした道路の上をホテルに向かって一心に進んだ。30分くらいすると、HOTEL FORT VIEWというお世辞にも豪勢とは言えないホテルに到着した。

ホテルに着いたのが深夜12時を過ぎていて、みんな疲れ果てていたのですぐにでもベッドに入りたかったけど、マネージャーがどうしても夜景を見せたがるので屋上まであがることになった。夜景なんて言ったってどうせそんなに大したことはないんだろうと思っていたが、実際に屋上に上がってみると、目の前には霧の中で幻想的に浮かび上がるモスクが僕らを待ち構えていた。見た瞬間、イランのイスファハンで見たスィー・ウー・セー・ポルが脳裏に思い浮かんだ。と同時に、見たことはないけど、大荒れの海の中を進む一隻の船というのはこういう感じなのだろうと思った。これは今の僕の心象風景だ。

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↑HOTEL FORT VIEWの屋上から見下ろすラホール・フォート



11月12日出発当日の朝、午前5時30分のバスに乗らなければいけないはずなのに、目を覚ましたら5時30分だった。「あっ、終わった」と一瞬思ったが、一本後のバスが6時30分に出ていることを思い出して、それならギリギリ間に合うんじゃないかと思って慌ててパッキングを開始した。当初の計画では午前3時30分に起きて、1時間半でパッキングを終わらせて、5時に家を出発する予定だった。だから、パッキングを全くしていない状態だったので、さすがに焦った。とにかく時間がないので(出発までの30分でリュックサックとPCバッグとカメラバッグとスーツケースに荷物を詰め込まなければならなかった)、ほとんど置いていくべきものと持っていくべきものの選別をしないで、ひたすらかばんに物を詰め込んだ。6時30分のバスにはなんとか間に合った。成田からバンコク経由でラホールに入り、ホテルで1泊して、13日、戒厳令下のイスラマバードにやってきた。



今僕が置かれているシチュエーションというのはこれまでに前例があまりないような状況で、どこまで書いていいのかよくわからないけど、結局、僕はパキスタンの首都イスラマバードでしばらく働くことになった。アフガニスタンでのプロジェクトは継続するのだが、治安の悪化から(一部の)日本人がアフガニスタン国内にいることができなくなったので、イスラマバードからプロジェクトを遠隔操作することになったのだ。2週間日本に一時帰国している間は、あんまりやる事なす事が手につかなくて、とにかく疲れていたのでゆっくりと休んでいた。人によっては、あんまり大きな変化じゃないんじゃない、と言うかもしれないけど、僕にとっては気持ちを整理するのに結構時間がかかった。心残りややり残した事がまだまだいっぱいあるような気がして、それでも去らざるを得ないというのは、人間を複雑な気持ちにさせるものだ。



仕事の面で複雑な気持ちになることは沢山あるけど、プライベート面で言えば、「隣接国探索シリーズ」が第1回の奔流イラン編を書いただけで、アフガニスタンを去ることになったのが心残りだ。本当は、トルクメニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、中国新疆ウイグル地区、パキスタンを周るはずだったんだけど、それをアフガニスタンベースでやることは実質的に、少なくとも向こう数年は不可能になってしまった。でも、多分僕はパキスタンをベースに、アフガニスタンを中心とした隣接国探索を続けるのだと思う。未だ持って、そういう気持ちでいる。

今回の退避を受けて思うのは、人生の中でやりたいと思った事があったら、それが気持ちの中で熱い内にやっておくべきだ、ということ。イランに行った時に、隣接国探索をやりたい!と思ったレベルで、将来もそのモチベーションを維持できるとは到底思えない。やりたいと思ったことは、そう思い立った瞬間にやった方が、人生を終える時に後悔がないのではないだろうかと思う。例えば、会社を辞めて留学したいとか放浪旅行したいとか、どうしようもなく好きな人ができたとかいう時に、その気持ちをオブラートで包んで自分を誤魔化すのはとっても不健全だと思うのだ。そうして誤魔化された気持ちというのは、残りの人生にずっと付きまとうもので、理性的な判断では自分を誤魔化しきれるものではない。僕は、会社をやめて留学してアフガニスタンに行った事に対して後悔をしたことはこれまで一度もない。きっと、自分の正直な気持ちっていうのはそういう不変的なものなんだろう。

精神的な傾向というものは、一度固まってしまうと、そう簡単に変えられるものではない。僕の頭の中ではずっとAm(エーマイナー)が鳴っているような気がする。時には、それがC(シー)になったり、A(エー)になったりするけど、結局はAm(エーマイナー)に帰結してしまうものなのだ。それは、もう僕にはどうしようもない傾向、あるいは、性向というものだ。だから、時には上に、時には下にブレたりすることはあっても、変えられない自分というものがあるのだと思う。それは変えられないんだから、そのままで生きていけばいい。こういうことをネガティブに言えば諦観で、ポジティブに言えば達観という言葉で表されるのだろう。



イスラマバードでの新しい生活が始まった。カブールに住んでちょうど2年、ある意味ではよい区切りだと思って、前向きに明るくやっていきたいなって、目の前にある山積みの仕事を横目にしながら、考えている。そうすれば、僕の頭の中に流れるAm(エーマイナー)が、いつしかAm7(エーマイナー・セブンス)になり、そしてC(シー)に転調する日が来るかもしれない。ラホールの街にかかっていた霧が晴れる日も来るかもしれない。自分自身の矛盾は自分でわかっている。でも、それはきっと不可能な事じゃないはずだ。

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by aokikenta | 2007-11-14 03:17 | 日記(イスラマバード)
2007年 11月 12日
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by aokikenta | 2007-11-12 18:49 | 日記(イスラマバード)
2007年 11月 08日
MF113 completed
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最初の地雷原の処理が終わった!
2007年11月6日に、地雷原の周辺住民への土地の引渡し式が行われた。アフガニスタン最大の雇用創出産業、地雷処理員数8000人、命を顧みずに国の復興の為に働く聖職者。世界でも最大級のアフガニスタンの地雷処理業界にあって、日本のNGOの規模としては大きいけど、海外や現地NGOと比較するとマメツブみたいに小さい地雷処理団体の、でも、僕にとっては大事な大事な第一歩のお話し。

最初の地雷原
JMASが地雷処理を行ってきた2つの地雷原の内の片方の地雷原の地雷処理が終わった(↑のAfghanistan Timesの記事を参照)。カブールから北に約70キロのところにあるパルワン県バグラム郡のカライ・アフマド・ジャン村という村に隣接するMF113とMF114の2つの地雷原の地雷処理を(MFはMine Fieldの略)、去年の11月からやってきたけど、その内、65,000平方メートルあるMF113の処理が終わったのだ。これはJMASアフガニスタン事業にとっては、最初に処理が完了した地雷原だ。思えば、この業界に入ってずっと取り組んできた事が形になったわけだから、ものすごく感慨深いものがある。地雷処理員の雇用から、彼らが住む宿営地選ぶのから、彼らの装備品から、deployする地雷原の選定から何から何までやってきて、その苦労(と自分で言うのは変だが)が結果となって表れたということだ。嬉しい!!!

日本のNGOがアフガニスタンで地雷処理を行う意義
仕事をしながら、日本のNGOが(実際には、僕の団体しか日本では地雷処理をしていないので自分の所属団体が)アフガニスタンで地雷処理を行う意義について、よく考える。地雷・不発弾処理はある意味で特殊な事業だと思う。学校建設とか井戸堀りとかクリニックの運営とかっていう開発系の事業には、賛否両論があるのが常だ。

それをすることで本当に現地の人の幸せに結びつくの?
今のままでも彼らには彼らのコミュニティーがあって秩序があるわけだから、それを外部の人がいじくる必要があるの?
発展というものは先進国の考え方で、開発援助っていうのはそれを考え方の違う人に押し付けてるだけなんじゃないの?

なんていう根本的な疑問もある。他にも、

開発って言うのは魚を与えるんじゃなくて、魚の釣り方を教えるものなんじゃない?
いいことしてるつもりかもしれないけど、永遠にそこで活動するわけじゃないんでしょ?
撤退した後、彼らはあなたたちが作ったものをどうやって管理・運営していくわけ?

なんていう持続可能性やプロジェクトの手法に関する批判まで色々ある。

でも、地雷・不発弾を取り除く活動に関しては、驚くほど(本当に驚くほどに)批判というものがつきまとわない。地雷・不発弾は危ないんだから取り除いた方がいいに決まってるでしょ、で議論は終わりになってしまう。こんな事業、他にあるだろうか?たまに、ある種の気持ちの悪さというか居心地の悪さすら感じてしまう(こういうやっていることに批判が一切ない事、自分はいい事をしているんですよ、ということをしたことがないので)。自分自身としては、あんまり「いい事をしているんだ」という気持ちはない。

話を戻すと、地雷処理の意義についての話しなのだが、日本に限らずどの国の団体であろうと地雷処理を行えばその土地の安全化が行えて地雷・不発弾による被害者を無くすわけだから、意義は確かにある。しかし、もう一歩踏み込んで、特に日本のNGOがそれを行う意義というものについて、わざわざ渡航費と給料を出して日本人が現地にいって活動する意義というものについて考えさせられるのだ。よく目的として挙げられる事には、

1.難民・避難民の帰還・再定住促進
2.雇用の促進
3.処理技術の移転
4.日本人の貢献を国際社会に認知させる事

などが挙げられる。

まず、僕がこの中で重要だと思っているのは、2番の雇用促進だ。ウチのNGOでは、地雷処理員のほとんどをDDR修了者から雇用しているのだ。DDRとは、Disarmament, Dismobilization, and Reintegration of ex-combatantsのことで、日本語で言えば、元兵士の武装解除、動員解除、再統合(社会復帰)のことだ。軍閥の元にいた兵士の武器を取り上げて、彼らを軍人から市民に変え、更に職業訓練などを施して自立して生活できるようにするプロセスのことを指している。日本はアフガニスタンでDDRを主導してきて、前の東京会議で正式にDDRプログラムが成功裏に終了したと宣言した。日本はアフガニスタンが平和維持段階から平和構築段階へシームレスに移行するに当たって、紛争再発予防の要素を含んだプロジェクトを行い、大きな貢献をしたということだ。

そういう日本としては経緯のあるDDRを考慮した時に、地雷処理コースの職業訓練を行った元兵士を地雷処理員として雇うことというのは、非常に意義のあることだと個人的に思っている。動員解除されたはいいけど仕事がなくて困っている人が沢山いて、そういう中で、少数ではあるけれども、他の仕事では考えられないほど良い給料を与えて雇用を確保すること、というのはアフガニスタンの平和構築のためのみならず、日本のアフガニスタンへの貢献を国際社会へ示す意味でも意義があると思うのだ(逆に言えば、地雷処理員を1年・2年で無職に戻すことは、彼らの軍閥への回帰を促し、非常に悪い影響があるということだ)。だから、僕はこのプロジェクトを継続することはマストであると思っている。

次に、僕が重要だと思ってるのは、4番目の日本人の貢献ということだ。今まさに、日本がアメリカの標榜する「テロとの戦い(”War on terror”という言説は都合のいいように作り出されて利用されているという側面が強いですが・・・)」にどうやって貢献していくのかが、日本では連日新聞やテレビのニュースで議論されているが、インド洋での給油活動というオプションと並ぶくらい、日本のアフガニスタンへの人道貢献を国際社会へ示していくこと、国際社会への協調を実行動で示すという点で、意味があると思うのだ。別に、それは地雷処理でなくてもいいと思うし、他の事業をしたって十分に示せると思うんだけれど、「金を流す、汗を流す、血を流す」という援助の3段階を勝手に設定したとして、本当の意味で「汗を流す」こと、日本人がアフガニスタン人と一緒になって、アフガニスタンの為に汗を流す事業というのは、とても意義があるのだ。


こうして書いてきて、僕は思う。「意義がある」ということ。それは何に意義があるということ?それは疑いようもなく、僕は「日本の国益」にとって意義があるということを意味してしまっている。人類の為に意義があるとか、地球益になっているという世界観での話ではない。そういう話しであれば、別に日本のNGOでなくてもよいのだ。アメリカでもイギリスでも中国でもUAEでもバチカン市国でも何でも良いのだ。でも、そういう議論ができない。それって何で?

「国家」というもの
僕らはまだ国家(nation-state)を飛び越えられる時代には生きていない。一般的には、1648年に結ばれたウエスト・ファリア条約から国民国家という概念が定着したと言われているが、僕らはRegional OrganizationとかUnited Nationsを具現化する時代に生きつつも、しかしながら、依然としてnation-stateに固執せざるを得ない時代に生きているのだ。それはどうしようもない現実だ。

この前、ある人から言われた。
「人道支援とか平和の為とか言うけど、やっぱり国のお金使って、国民の血税使ってやってるんだから、(ODAを含めて)国益を追究しない政策なんてあり得ないよね」
それは至極もっともな意見であって、反論の余地があんまりない。税金を使って事業を展開しているNGOの職員がこの意見に反対することなんて出来る?これは、極めて現実路線の意見だ。

賢明な人は気が付いていると思うけど、上の考え方は国際政治学でいうところのリアリズム(Realism:現実主義)だ。国際政治学でリアリズムと双璧をなす考え方がリベラリズム(Liberalism:自由主義・理想主義)というものだ。こういう議論って結局、世界の見方の問題であって、大人になるとやっぱりそれぞれの立場があるから意見の相違は避けられないものだと思う。そして、リアリズムを国家に奉職している人が信じるのは必然だと思う。外交官や自衛官や各省庁に勤める国家公務員が、リアリズムじゃなかったら、僕は一国民として、それってどうなの、と思わず言ってしまうかもしれない。

しかし、同時に思うのは、日本は援助政策において国益のプラスアルファを求めていく義務があるのではないかということだ。第二次世界大戦で敗れて、原爆を落とされた国家として、そして、そこから這い上がって経済大国になった国家として、世界が向かっていくべき理想のようなものを、あいつらはお人よし、典型的な金持ちのボンボンの発想だという批判を受けつつも、追及していってもいいんじゃないかという気がするのだ。そんなことができるのは識字率が99%以上ある教育の行き届いた国だからかもしれないし、食う食わないの話しを日常レベルでしないでもいい家庭がほとんどだからかもしれない。やっぱりお人よしのボンボンだからかもしれない。でも、国益を超えたもの、理想みたいなものをリーディング・ネーションとして世界に示していったっていいんじゃないの?って僕は思う。

人道支援を政治の道具にはしないで
今、日本では本当に毎日、民主党の小沢代表が辞任するとか(今日、続投するというニュースがあったけど)、テロ特措法の延長の話しとか、アフガニスタンやイラクでの支援の話とかがトップニュースで取り上げられていたり、国会でアフガニスタンでの支援の状況を議論したり、国会とかその方面から問い合わせが来たりしていて、アフガニスタンの支援に関わる人間としてちょっとびっくりしつつ、同時に、注目を集めていることに嬉しく思ったりする(あんまりいいニュースで注目を集めないアフガニスタン・・・嗚呼)。でも、危険だなって思うのは、人道支援を政治の道具にしてしまう傾向がちらほら見えることだ。この前、国会で、アフガニスタンで自衛隊のOBが地雷処理をしている、とある議員が言っていた。それを言っていたのは確かテロ特措法の延長に反対している野党の議員で、給油活動じゃなくても国際社会に日本の貢献を示していくことはできるんじゃないか、というコンテクストだった。人道支援とリアリズムとリベラリズム。うーん。ひょっとして、人道支援が政治の道具になっている?というかそれは昔から??

人道支援は人道的見地から行われるもの、だからリアリズムが入り込む余地はない、なんてことは言わない。それにしても、そういう事が国会で当たり前に語られてしまうことっていうのは援助関係者として言葉を挟まずにはいられない。いや、国際社会への協調を示す為にもっとアフガニスタンへ人道支援をしていこう、給油活動以外のことでもいいじゃないか、というのは今の僕が置かれている状況からすると間違いなく追い風なのだ。アフガニスタン支援は政治的に重要じゃないか、そしたら、どんどんお金をつけましょう、なんて言われたら嬉しくないわけはない。しかーし、裏を返せば、それって政治的に重要じゃなかったらお金が出ない、そして支援活動はどんどん縮小してしまうってことでしょ?現場にいる実感というか「感じ(雰囲気)」としては、アフガニスタンの支援、特に地雷という事で言えば2013年(オタワ条約によるプライオリティー1の地雷処理の期限)くらいまでは安泰なのかなという気がする。向こう5年って感じ?しかし、怖いのはその後だ。

援助には潮流っていうものがあって、カンボジアにいてアフガニスタンに来たという人が沢山いて、最近アフガニスタンからスーダンに行ったという人が僕の周りだけでも沢山いる。別に悪いことだと言うつもりはない。悲しいかな、お金がないと事業運営はできないのだ。これは国際政治学に出てくるリアリズムというターム以上に僕達にとってはリアルな話しなのだ。でも、そうやって流れによってブームが終わってしまった国は見捨てられてしまうとのは、「人道的」という言葉から連想されるイメージからはかけ離れてしまっているんじゃないかなぁという気がしてしまうのだ。でも、それが現実なので末端で草の根支援をしている自分としてはその現実を受け入れるしかない。今日も世界はそうやって回っていくのだ。

でも一つだけ言いたいのは、人道支援を政治の道具にはしないで、ということ。そうなってしまったら、スーダンに話題を持っていかれた後のアフガニスタンはどうなってしまうの?地雷に囲まれた村で住んでいる村人はどうなってしまうの?旱魃がある度に水不足で死人が出る、栄養状態が悪くて5歳になる前に死んでいってしまう乳幼児はどうなってしまうんだ?日本の国益も大事だけど、一番重要なのは末端で本当に困っている人たちが何を求めているのか、じゃない??本部にいる人はともかく、少なくとも現地でそれを知っている人はその立場を表明し続ける義務がある。水際で戦う必要がある。迷ったら、本当に支援が必要な人のことを考えて戦うのだ。それが僕らに与えられた義務だ。

結語
結局、一貫した論旨のない文章になってしまった。それは自分自身の中にどっちを取るべきかへの迷いがあるからだろう。それでも、思ったことを残しておこうと思って書いておくことにした。僕はいっつも色んな人の意見を聞いたりして問題の両側面を見てみて、それで結局、新進気鋭の評論家のようにこうすべきだという切れ味鋭い文章を書く事ができない。でも、one-sidedな意見を信じ込んで主張するよりもずっと健全なんじゃないかと思ったりする。だから、結論を導くことができないまま文章を締めくくることにしたいと思う。雑感みたいな文章、目の前にある迷いをそのまま表したみたいな音楽、頭の中にあるイメージだけを抽出したみたいな写真とか絵。そういうものが僕は好きなのだ。


最後に、退避勧告でアフガニスタンに民間人が入れない今、アフガニスタンの現状を伝える義務がアフガニスタンで働いている人々それぞれに課せられているのではないだろうか。マスコミはもう取材してくれないだろう。自分の目で現場を見て記事を書いてくれる新聞記者もいなければ、現場に乗り込んでくるテレビクルーもいないだろう。だから、政府関係の人も国連の人もNGOの人も、どうやってアフガニスタンのことを日本にいる人に伝えていくかということを、広い視野で柔らかい頭で考えていく必要があるのではないだろうか。


末筆に、団体としての意見ではなくあくまでも僕個人のコメントとして聞いて欲しいのですが、最初の地雷原の終了という成果は、僕一人ではできなかったことだし、僕らの団体だけではできなかったことでした。これまで支えて下さった方々や、関係者の皆様に、この場を借りて個人的に感謝の気持ちを表したいと思います。
ありがとうございました!

Lots of Love! Big Hug!!

ケンタ










追伸
新聞記事中の「Mr.Shignobo Comery」には笑った。
あのー、日本人なんですけど・・・、Comeryって・・・・・、何度読んでも本人とのギャップに笑えてしまいますね(笑)
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by aokikenta | 2007-11-08 11:57 | 日記(イスラマバード)