2008年 07月 31日
断章3
1950年~60年代に、アフリカ系アメリカ人の公民権運動がアメリカで盛り上がりを見せた。
アメリカでは1862年の南北戦争により奴隷制の撤廃は実現していたものの、1950年代当時の
アメリカ、特に南部では、黒人差別は依然として生活の至るところで幅広く根付いていた。

バスなどの公共施設では、白人専用席と黒人専用席が区別されているのが一般的だったし、
雇用でも黒人が圧倒的に不利な立場に立たされるのが常識となっていた。
そうした中、キング牧師を中心として公民権運動が盛り上がり、ケネディ大統領や
リンドン・ジョンソン大統領の力で公民権法が成立、ついに法律上、アメリカで黒人差別が撤廃された。

人間は戦争をするものだ。
人間は差別をする生き物なのだ。
僕が平和学を勉強していたと言うと、面白がってそういう挑戦的なことを言ってくる人がたまにいる。
人類の歴史は戦いの歴史だ。猿だってハイアラーキーを作り、仲間へのいじめをする。
上のような言葉は、元々人間というのは生物学的にそういうものなのだから
僕達が努力してもしょうがないよ、という諦めに似た感情に基づいていると思う。
人間も動物だから、戦いや差別をする生き物だというのはその通りだ。
しかし、果たしてそれは努力しても克服されない種類の物事なのだろうか?
そしてまた、克服されないままでよしとするべき種類の物事なのだろうか?

基本的人権も民主主義も、西欧から生まれた。
だから、それらが良いか悪いかというのは西欧的価値観に基づいたものであって普遍的(universal)なものではない。
実際に、人権や民主主義への批判はイスラム世界や、アジア世界などから発せられている。
そもそも人権に存在論的根拠(ontological ground)を与えることはできないと思う。

しかし、それらが普遍的なものではないからといって、個別的に適用できないわけではないと思う。
アメリカの公民権運動を見た場合に、彼らが勝ち取ったものは意味のないものだったと言えるだろうか?
公民権運動以前に、黒人が置かれていた状況を仕方のないことだと言えるだろうか?
僕は、決してそうは言えないと思う。

そうだとすると、人権や民主主義をどう捉えるかというのは自分の「立場」一つだということではないか。
Universalに「良い」とは言えないもの、それを「良い」か「悪い」か考えるのであれば、
それを考える自分自身がそのどちらかに「軸足」を置かなければならない。
自分の立場を決めなければならない。
相対的でい続けることもできるかもしれない。
しかし、相対的でいるままでは物事を解決へは導けない。
僕らは現実の世界で生きていて、現実の世界を動かすには指針となるものが必要だ。
僕らはどこからか何かを始めなければいけないのではないだろうか。

僕は、公民権運動以前の黒人が置かれていた状況を仕方のないことだとは言えない、と書いた。
それをアフガニスタンに適用するとどうなる?
例えば、タリバンによる”人権侵害”は、歴史的流れから見ると仕方のないことだと言えるだろうか。
現地の事は現地の人たちが時間をかけて解決するしかない。
それは正しくその通りで、現地の人が発信した変化でなければそれは意味がないかもしれない。
アフガニスタン発ではない復興援助政策を推し進めたところで、外部者のエゴに過ぎないのかもしれない。
しかし、僕らが人道的に見てあまりにも酷いと思うこと、人倫に悖(もと)るとおもうことを止めさせて、
どちらに向かうべきかという方向性を示すこと、そして外部から手を差し伸べることは、
きっと無駄なことではないはずだ
(自分自身の置く軸足の位置によって、「あまりにも酷い」とか「反人道的だ」いう判断基準の
ラインに多かれ少なかれ違いが出るだろうけれど)。

「I have a dream」

とキング牧師は言った。
新生アフガニスタンが、タリバンによって転覆させられて破綻してしまうという物語。
新生アフガニスタンが、反政府勢力を押さえ込んで、法による支配を実現した国家を樹立するという夢。
50年後の紛争解決論の講義ではどちらのケーススタディーが教えられているだろうか、と考えてみる。
破綻/再生していく未来の自分と、アフガニスタンの未来の姿をオーバーラップさせながら。
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by aokikenta | 2008-07-31 00:26 | 日記(イスラマバード)


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