2008年 06月 25日
炸裂ラホール (後編)
(前編からつづく)

ラホール・フォートとOld cityとミナレ・パキスタン
バードシャーヒー・モスクを見終わってから、Asifと一緒に、門の外にあるカフェでチャイを飲んで休憩した。ガイド料を払うよ、と言ったら、「僕はお金が欲しくてやってるわけじゃないんだ、これからもいい関係でいられたら嬉しいから。だから、ガイド料は君次第だ(up to you)」と言われてしまった。up to you・・・。As you wishに次いで、よく耳にする言葉だ。それでも、demandingな態度を示されるよりもいいかと思い、300ルピー(約5ドル)渡して、僕はラホール・フォートに向かうことにした。

ラホール・フィートとバードシャーヒー・モスクは隣接している。少し歩いてから、入り口で200ルピー(約3ドル)払って、ラホール・フォートを見学することにした。ラホール・フォートは元々城塞だった場所で、すぐ傍には昔は川が流れていたらしい。川があれば天然の要塞になるわけだから、それは利口な考えだ。しかし、今では川の流れが変わってしまい、近くに川は流れていない。赤いレンガで囲まれた敷地をぶらぶらと歩いて散歩を楽しんだ。緑色が綺麗な芝生が広がっていて、家族連れのパキスタン人が、雨が降った後の涼しい天気を楽しんでいた。パキスタンでは、いい天気とは晴れのことではなく、気温が低い天気のことを指す。

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↑ラホール・フォートの壁。道が広いのは象が通れるようにという配慮らしい。

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↑ラホール・フォートの中にあったキラキラ輝く建物の内部。

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↑内部の壁。この青色はアフガニスタンで採れたラピスラズリの青に違いない。

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↑ラホール・フォート内部からのぞむバードシャーヒー・モスク(右)とその門(左)。

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↑ラホール・フォート内部の階段。一段一段が浅く設計されているのは、象や馬が通れるようにということらしい。

ラホール・フォートを歩いていると、「写真を撮っていいですか?」という質問をよく受けた。最初、「シャッターを押してください」ということかと思って快く応じたのだが、どうも、お願いをしてきた人が横に立ち、その友達が写真を撮ろうとするので、実は「僕と一緒に写真に入って下さい」という意味だということに気がついた。わしは芸能人か、と思いつつ、笑顔で写真に納まった。僕は彼のアルバムの中で生き続けるわけだ。そう考えるとある意味すごい。しかも、お願いをされたのはこの日だけで一回だけではなく三回あった。パキスタン人にとっては外国人は相当珍しいのだろうか。そういえば、道を歩いているとやたらと声を掛けられたし、僕が現地人しか行かないようなバザールを歩いていると、その通りの空気を一変させてしまっているような錯覚に陥った。あるいは、僕は自意識過剰かもしれない。しかし、僕がそこに存在していることで明らかに周りの空気を変えている事は確かであった。「こちらアルファ。ロミオ、この道に侵入者あり、要注意、オーバー」とか「了解、ロミオ追跡します、オーバー」とか言いながら、通りの端々で現地人が無線で交信し合って逐一僕の行動をチェックしていたと言われたとしても、僕はさして驚かなかっただろう。

バス停を午前11時頃出てから、バードシャーヒー・モスクとラホール・フォートを見学し終わった時点で、午後2時くらいになっていた。お昼ご飯を食べようと思って、すぐ近くにあるOld cityへ歩いていくことにした。

Old cityは壁で囲まれた旧市街地だ。外界と切り離す為の壁が張り巡らされているが、お互いの世界を行き来する為に門が12個ある。バス停からバドシャヒ・モスクに来る際に門を3つか4つ見かけたので、大体方角がわかるから歩いてどこか一つの門へ行こう、と思い地図もよく見ないで歩き始めた。歩き始めたはいいのだが、いくら歩いても門が見つからない。デコレーションされたトラックとバスと、オートリキシャーと、荷物を運ぶ馬車や牛車が道路をひっきりなしに往来し、そこを無秩序に人々が横断をしている。バスのパパパパパパッという甲高いホーンの音が聴覚を刺激し、排気ガス規制をクリアしていないであろうリキシャーの排気ガスの匂いを吸い込み嗅覚をやられながら、ひたすら歩き続けた。しかし、結局、僕は道がわからずに迷子になってしまった。悩んでもどこへ向かっていいかわからないし、お腹がすいていたので、取り合えず、腹が減っては戦はできぬ、ということで道端にあるレストランでお昼ご飯を食べて、作戦を練る計画に変更した。

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↑Old cityのバザールの様子。車やバイクが数センチ横を走っていく。

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↑バザールの様子。真ん中あたりに見えるのは、よくみかける変電装置だ。

ラホールでは、お昼にボーンレス・チキン・ハンディというチキンカレーみたいな料理を食べようと考えていた。それをビリヤーニの上に乗せて、ヨーグルトをかけてから、お皿の上でぐるぐるかき混ぜて一気に食べようと企んでいたのである。しかし、完全に迷ってしまっていて30分くらい歩いて疲れていたので、もうどうでもいいやという気分になって、そこら辺にある食堂に入ることにした。そこは本当に地元の人しか来ないような食堂だったので、「この東洋人は何者だ?」という視線を痛いほど浴びながらご飯を食べる事になった(まぁ、それは食事中に限らないけど)。僕は、野菜のカレーとチャパティーとコーラを頼んだ。しかし、アルミのお皿に乗って出されてきた野菜のカレーのボリュームが少ないので、チキンカレーを追加した。通常の二人前にあたるのだろうけど、140ルピー(2ドルちょい)だった。

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↑お昼を食べた食堂。野菜のカレー、チキンのカレー、チャパティー2枚、コーラを頼んだ。

カレーをよそう係りの人に頼んで写真を数枚撮らせてもらってから、ワズィル・ハーン・モスクへの行き方を教えてください、と質問をした。実は、食事の後、Lonely Planetの小さな地図を見ながら立てた作戦というのは、とにかく一番近くのゲートに向かうことだった。ゲートまで出れば、地図に載っているし大体の方向感覚が掴めるはずだ。そして、その質問をしたワズィル・ハーン・モスクというのはデリー・ゲートという門のすぐ傍にあるモスクなのである。だから、そのモスクまで行けば、デリー・ゲートに着く事ができるはずであり、ゲートまで到着できれば、old cityを囲う城壁に沿いながら散歩が楽しめるはずだ。

「ここを真っ直ぐ行って右に曲がり、ずっと真っ直ぐ行くとあるよ」

と彼が言うので、それに従って歩いていくと、綺麗なモスクが現れた。しかし、パキスタンではよく見かける規模のモスクだったので、さして時間をかけずに奥に見えたゲートまで進んだ。道端のお店のおじさんに「このゲートの名前は何?」と聞いたら、「デリー・ゲートだよ」と返事が返ってきた。地図でデリー・ゲートを確認した。ラホール・フォートに近い場所にあるゲートである。やっぱり僕の作戦は成功だった。うんうん。

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↑デリー・ゲートを外から撮影。こういうゲートがold cityには12個ある

デリー・ゲートの所で水を飲んで少し休憩をした。これから、どこへ行こうかと悩んでいた。時間はもう既に午後4時頃を指していた。帰りのバスは午後6時で予約をしていたので、もう2時間しかない。ラホールには他にもラホール博物館や大きな庭園など、見るべきものが沢山あるのだが、元々の計画がラホール・フォートとバードシャーヒー・モスクを見る事だったし、時間もないので、城壁に沿ってold cityを散歩することにした。写真を撮りながら、街を歩いたら気分がいいだろう。そう思って、デリー・ゲートを出てから右に曲がって歩き始めた。

しかし・・・、しかしなのである。いくら歩いても次のゲートが見えてこない。見えるのは、オートリキシャーと、こぶ牛が引っ張る荷車ばかりで、肝心の赤い壁と古い門が見えてこないのであった。20分くらいあるいても見えないので、僕は更に計画を変更することにした。歩いていても埒が明かないので、リキシャーを捕まえて、ミナレ・パキスタンという新しい観光名所みたいな場所へ行き、そこで時間を調整してからバス停に戻ろうと決めた。僕は、青い色をしたリキシャーに「ミナレ・パキスタン」と告げ、60ルピー(約1ドル)という値段を確認してから、リキシャーに乗り込んだ。パキスタンでオート3輪車に乗るのは、これが始めてだった。

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↑リキシャーの中からラホールの街をのぞむ。中は案外快適。ドライバーの車両感覚は、日本人よりも鋭い。

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↑道端を走るデコレーションされたバス。

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↑装飾されたバス。何故か、僕は、パキスタンの派手なバスを見ると「死」を連想してしまう。

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↑馬車。ラホールでは、街中でも人間と動物が共存している。

ミナレ・パキスタンは、ラホールにある他の名所に比べると新しく、平たく言えば、コンクリートで出来たさほど高くない塔だ。塔の足元には1940年のラホール決議の碑文が刻まれているということで、パキスタン建国の象徴的な場所であるらしい。パキスタンが独立したのが1947年なので、パキスタンの名所と言うと、どうやったって新しいものになってしまうのは否めない。

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↑ミナレ・パキスタン。足元には、1940年のラホール決議(パキスタンの分離を認めた決議)の碑文が刻まれている。

ミナレ・パキスタンで写真を数枚撮ってから、芝生に座っていたら、僕を珍しいと思ったのか、3人のパキスタン人が僕の近くに寄って来た。親子ともう一人はその子供の友達という関係らしい。ウルドゥー語で何かを話しかけてくるが、全然わからない。英語でこちらから話しかけても全然通じない。ふと思い出して、鞄から「旅の指差し会話帳 ウルドゥー語版」を取り出した。それを見せたら、大分円滑にコミュニケーションが図れたような気がする。「旅の指差し会話帳」があったからいいものの、しばらくは言葉が通じない苦しみというのを久しぶりに痛感した瞬間だった。何を言おうとしても、知らないからもうお手上げなのである。でも、「ノーメ・チ・アスト?(名前は何?)」とダリ語で言ったら、しっかり名前が帰ってきた。ウルドゥー語では「名前」を「ナーム」というらしいことを後で知った。

30分くらい芝生の上で、「旅の指差し会話帳」を挟んで会話をしてから、僕はおじさん達3人組に別れを告げた。そして、バードシャーヒー・モスクの入り口付近まで歩いていって、リキシャーを捕まえた。130ルピーで合意して、僕はリキシャーに乗り込んだ。後は、バスに乗って帰るだけだ、と思うととても安心した気持ちになった。中からラホールの街並みを眺めていると、リキシャーのドライバーが「どこから来たの?」と聞く。「日本だよ」と応えると、「Japan Good!」という返事が返ってきた。聞いてるととにかく、パキスタンで走っている車は日本製ばかりだし、スペアパーツの品質も高いから日本が好きなのだという。

バス停に向かう途中で、ドライバーがリキシャーを止めてお店に入っていった。何だろうと思って途方にくれていると、彼は、アイスクリームを2本持って帰ってきた。1本は僕にくれるのだという。衛生的な問題は横においておいて、僕はその気持ちをありがたく受け取り、「シュクリア」と答えた(実は、リキシャーの後部座席に座りながら、これを食べるべきか食べないべきかと、僕は葛藤していた。この状況下で[つまり、アイスクリームを買ってくれたドライバーが運転するリキシャーに同乗していて、彼の目が届く場所にいるという状況で]アイスクリームを食べないで窓から捨てるというオプションも物理的にはあるのだろうが、現実社会ではほぼ選択できないオプションだ。結局、僕はそのローカル風のアイスクリームを全部食べきった。そして、僕はその日の晩から数日に渡って激しい腹痛に苦しめられる事になった)。

夕方5時半にバス停に着いた。イスラマバードから到着したバス停と同じ場所である。携帯電話番号を教えてくれたHassanに挨拶に行ったが、シフトが変わってしまったのか、彼は元の席にはいなかった。挨拶ができずに残念だった。僕は、6時前にラワルピンディ行きのバスに乗り込んだ。バスは予定通り、6時丁度に、ラワルピンディに向けて出発した。

エピローグ
炸裂してやりたかった。
ぶち壊してやりたかった。

絶望/希望、日常/非日常(祝祭)、創造/破壊、停滞/躍動・・・。
暗闇を引き裂きたかったし、日常を切り裂きたかった。
停滞ムードを破壊したかったし、あらゆる物を越えたかった。

朝5時に出発して深夜12時に終わったバス日帰りラホール旅行は、
単なる観光旅行というラベルを超えられなかったかもしれない。
でも、僕にとっては、それはいつまでも鮮やかな印象を記憶に残す旅だった。
そう、まるでユベントス戦で中田英寿が取った「あの2点」のように、
とても鮮烈な時間だった。僕はそれだけは自信を持って言える。

ラホールからイスラマバードへ向かう帰りのバスに揺られながら、
僕は、その日の朝に起こった出来事が同じ日に起こった出来事だとは信じられないでいた。
西の空に光る雷も、ゴロゴロとなる雷鳴も、フロントガラスを打ち付ける雨も、
アスファルトに出来た濁流も、そのどれもが遠い昔に起こった出来事、
あるいは、実際の世界で起こった出来事ではないような気がしていた。

写真のデータをパソコンに移して、午前2時頃、布団に入った。
バスの余韻を感じながら、体がいつまでもそっと揺れていた。

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↑バードシャーヒー・モスクが見守るラホールの街。

(おしまい)

※この記事は、筆者が2008年6月20日に、イスラマバードからラホールを訪れた時の記録です。
※「更新」ボタンをクリックしたら、「内容が多すぎますので、2374文字減らした後、もう一度行ってください」と表示されたので、2回に分割しました。本当は一回で炸裂したかったのに・・・、エキサイトのバカ。
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by aokikenta | 2008-06-25 19:28 | 隣接国探索②漂流パキスタン編


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