2008年 04月 11日
物事の本質を見る眼
終身雇用の企業勤めではなく、
契約を渡り歩いていく国際協力プロフェッショナルにとって、
確固たる人生哲学のようなものはスキルとかコンピテンシー以上に
大事なのではないだろうか。

強風がびゅうびゅう吹き荒れて高い波が容赦なく襲ってくる嵐の中でも
進むべき方角を示してくれる航海中の羅針盤のように、情報が過剰に流れる
今の世界の中でもブレないで生きていく能力。

いろんな国を転々とするような根無し草的な生活を延々と繰り返していると、
自分がどこに属しているのかよくわからなくなることが時にはあるだろう。
あるいは、分野も地域も違う仕事を何年も渡り歩いていると、
自分がこの業界に入った時にそもそも何をしたかったのか、
見失ってしまう時もあるだろう。

有益な情報も無益な情報も、区別なくテレビや雑誌やインターネットに
溢れかえっているこの世界の中で、しかも、日本の大企業みたく
3年毎にジョブ・ローテーションで職場変えをしてくれる人が
誰もいない業界に生きる僕らにとって、生きていく指針のようなものこそが
必要なのではないだろうか。

真実を見る眼
僕の好きな本に辰濃和男さんの『文章の書き方』という本がある。
辰濃さんは元朝日新聞の記者で、物事の表面だけではなくその内側を
読者に伝えるような洞察の深い文章を書くから好きだ。

***(以下、引用)***
若いころ、浦和支局にいました。

赴任したのが一九五三年ですから、はるか昔の話です。
掘っ立て小屋に住む人が少なくなかった時代です。
埼玉県のある開拓農家の三つ子を取材しようと思って、訪ねました。

父親は亡くなり、母親がひとりで育てていました。
母親が畑に出ている間、ボロを着た三つ子は大きな藁の籠にいれられている。
垂れ流しなのか、破れたむしろの部屋はすごいにおいでした。

母親が帰ってくる。
いずれ施設に入れなくては、という話しを聞きました。
「お子さんの写真を撮らせて下さい」と頼むと、
母親はちょっとためらい、待ってくださいといって
押入れを開け、晴れ着と言うのでしょうか、
白い毛糸の服を取り出して着せようとするのです。

「いや、そのままで」

といいかけて、やめました。
本当はボロのままの姿を撮りたかったのです。
「どうです、この酸鼻をきわめた光景は」
と読者に訴えたい、悲惨な現実を得意げに訴えたい、
という気持ちがありました。

母親は、「記者さん、こんなみじめな姿を撮るのは
簡便してください」といいたかったのでしょう。
黙って服を着せ替えました。
私は内心は不満でした。

「やっぱり、むりをしてでも、ボロを着た子どもたちの
写真を撮るべきだったんだ」という思いが残りました。

今はしかし、あのとき、母親にむりに頼んでボロのままの
赤ちゃんたちの姿を撮らなくてよかったと思います。
ありのままとは何か。

垂れ流しの部屋も現実ですが、新聞に載るときは
せめて見苦しくない服を着せてやりたいという母の心も現実
でしょう。
そのありのままの母親の心をふみにじれば、
さぞ後味の悪い思いをしたことでしょう。

(辰濃和男『文章の書き方』岩波新書、P.41~43)

***(引用終わり)***

いい記事を書いて一面を飾りたい、
という利己的な欲求で動くジャーナリストだったら、
この場面ではきっとボロボロの衣装を着た
母親と子どもを撮影していたことだろう。
しかし、その悲惨な光景が「真実」だと言い切れるのだろうか。

母親が、せめて写真を撮られる時くらいは、
子供に立派な服を着せてやりたいと思う心の方こそが
真実なのではないだろうか。
あらゆる情報が氾濫するこの世界の中で、何が本当なのか、
何が重要なのか、重要でないのか、
自分で考えて見極められる人間でありたいと、
この文章を読むと思う。

右目でファインダーを、左目でそこには映らない世界を
以前、『マスードの戦い』という本を紹介したが、長倉洋海さんという有名なフォト・ジャーナリストがいる。
彼の著書『フォト・ジャーナリストの眼』という本の中に、こんな一節があった。

***(以下、引用)***
通信社に勤めていた頃、
右目でファインダーをのぞいて、左目は
ファインダーに映らない周りにまで気を配れ
」と
先輩に教えられたことがある。
突発事件の時など、ファインダーをのぞいていただけでは、
周囲の状況の変化がわからず、いいショットはものにできないと
先輩はいいたかったのだろう。
それ以来、私にはいつも左目を閉じずに、
あけたまま撮影するクセがついた。

世界が激動し、一つの価値なり、一つのイデオロギーが
簡単に入れ替わる時代だからこそ、この時代に生きるフォト・ジャーナリストは、
いままで以上にその背景や時代の底流を見つめていなければならない
と思う。
私自身、いまだに取材を重ねるたびに、自分のこれまでの取材がいかに浅かったか、
マスコミの大勢に流されたものだったかと思い知らされている。
しかし、右目でファインダーをのぞきながら、左目でファインダーに映らない世界を
見続ける姿勢だけは失いたくない
と思っている。

(長倉洋海『フォト・ジャーナリストの眼』岩波新書、P.194)

***(引用終わり)***

ファインダーの中に映るミクロの世界を見る眼と、
ファインダーの外にある時代の流れや世界の情勢を見つめるマクロの眼。
同じ事について、たまたま村上春樹が『遠い太鼓』のあとがきの中で書いていた。

***(以下、引用)***
ミクロとマクロの視点が一人の人間の中に同時に存在してこそ、
より正確でより豊かな世界観を抱く事が可能になるはずだと思うのです。
僕が三年かけてこの本を書いたことによってなんとなく体得したものが
あるとすれば、それはそのような複合的な眼であるような気がします。

(村上春樹『遠い太鼓』講談社文庫、P.568)

***(引用終わり)***

写真家の長倉洋海と小説家の村上春樹が、
全然別の文脈ではあるけれども、根本的には全く同じことを言っていた。
仕事が違えども、本物はやはり本物ということだろうか。

自分の状況に置き換えれば、目の前にある取り組むべき仕事、
そして、実際に物事が進行している現場をおろそかにしない姿勢を持ちつつ(ミクロの眼)、
同時に、その現場に影響を与えている歴史的背景や、世界情勢を大局的に俯瞰的に
把握する姿勢(マクロの眼)を持つということが、彼らが言う姿勢に当たるのだろう。

「時代の底流」。

現象の表層だけではなく、その背後にunderlieしているバックグランドや
underpinしている原因を理解することで、その現象をより深く理解することが出来る。
更に、その深い理解があってこそ、次に何が起こるのか、世界はどう変化するのか、
それに対応して我々の組織は、我々自身はどう対応して先手を打てばいいのか、
そういった未来予測も可能になるのだと思う。
だから、次の時代を担うべきリーダー達は、時代の底流をよく見据えて、
常に変化を察知する能力を磨いておく必要があると思う。

それは民間企業であればビジネスチャンスにつながるのだろうし、
外交官であれば予防外交や自国に有利な展開へ導く事、
NGOであれば組織の拡大・紛争の予防、
国連であれば人道的危機の回避ということにでもなるのだろう。

広い円を掘れ
さっき紹介した辰濃和男さんの同じ本から、また好きなフレーズを引用させてもらおう。
彼の本の一番最初に出てくる言葉。

***(以下、引用)***
土の上に直径一メートルの円を描き、
その円内で円錐状の穴を掘ります。
次に直径五メートルの円を描いて穴を掘ります。
どちらがより深く穴を掘る事ができるか。
いうまでもなく、円が大きければ大きいほど、
穴も深くなります


ものを書くときは準備が大切です。
小さな円を描いたのでは、それだけのもので終わってしまいます。
はじめから思い切って広い円を描いて準備をすれば、
内容の深いものが生まれます


(辰濃和男、前掲書、P.2~3)

***(引用終わり)***

いい文章には、文章の背後に膨大な資料がある。
僕は、履歴書に見えてくる以外の部分も幅が広くて深みのある人間になりたい。
僕がこのブログで書いてきた旅行記や写真は、きっと履歴書上では何一つ役に立たないだろう。
キャリアのことだけを考えるのであれば、そういう事をする時間を少しでも削って、
トレーニング・コースを受けたり、出来るだけ違う組織や国で働いたり、
どこでも使えそうな言葉でも勉強していればいいのかもしれない。

しかし、僕は旅行をしたり写真を撮ったりサッカーをしたり
ギターを弾いたりすることを無駄だとは思わない。
旅行をして見聞した事が世界史と結びついて大きな流れを理解することを可能にしてくれるし、
写真を撮ることで本質を見ようとする眼を磨く事ができる。
音楽に触れることで豊かな発想が可能になるし、
運動をすることで心と体のバランスを維持・向上させていくことができる。
だから、それはきっと無駄なことじゃない。

どんな組織にも色んな人がいるので一般化はできないけど、
発展途上国で働いているにも関わらず現地の文化を尊重しない人がいる。
自分のキャリア・ディベロップメントの一環としてその国にいるだけで、
本当はその国への愛情など欠片もない人がいる。
しかし、それはとても寂しい事だと思う。

現地の人をあからさまに蔑むような態度を取る人、
成果を挙げてもっといい別のポストを掴む為だけに現地で働く人。
そういった姿勢で、現地の人々が本当に求める事業をすることが可能なのだろうか。
多分、マネジメントが出来れば可能だという反論もできるだろう。
そう言われたら、そうですね、と僕は言ってしまうかもしれない。
単なる、好き嫌いの問題なのかもしれない。

でも、僕は仕事は仕事でしっかりやるけど、
現地の文化を理解すること、言葉を覚えることも重要だよね、
という広いキャパシティーを持ったトップの人が好きだ。
その国への深い理解の上に立った経営判断が出来るリーダーを格好いいと思う。
上手く世渡りしていく事や、成果を挙げる事、出世をする事よりもきっと大事な事がある。
それが、キャリア・アップとか人生の成功とかいう言葉の陰で、
忘れられてしまっているような気が何となく僕にはしている。

未来に向けて
僕はフォト・ジャーナリストではないし、新聞記者でも小説家でもない。
しかし、人を感動させる写真を撮り文章を書く人には、普通の人には見えないものを
感じる心があるはずだし、それを見抜ける眼があるはずだ。
全く別の仕事をしている僕だけど、そういう姿勢や眼を見習いたいと思う。

若い時は、周りが気になってどうしても、「同じ年齢の中ではオレが一番出世してる」とか、
「オレよりアイツの方が先を行っている」とか、勝ち負けを気にしてしまうものかもしれない。
金銭の多寡で人間の価値を推し量る傾向があるのかもしれない。
また、情報分野の発達が著しく、一世代前と比べたらあらゆる情報を簡単に得られるようになった。
自分にとって有益なこと、無益なこと、今の世界で重要なこと、そうでないことが、
同じレベルで巷には溢れている。

こんな状況の中で、大海の中に放り出された一匹の金魚のような気持ちで、
心細くて不安になることもあるけれど、こんな状況だからこそ自分の確固たる信念とか、
初心とか、自分らしさというものを失いたくないと思う。
真実を見ようとする眼、ミクロとマクロの複合的な視点を併せ持ちながら、広い円を掘って行きたい。
端から見たらアイツは何か無駄な事ばかりしてるなぁ、って思われるかもしれない。
でも、僕はそんな無駄な事だと思われるようなものにこそ価値を見出したい。
一見すると大事ではないようなことにこそ本質的なものが隠されているのだと思うから。

これからの時代を引っ張っていくべき人たちには、
あらゆる分野を知っている総合力とそれらの垣根を越えていく柔軟性、
歴史と時代の流れを把握して未来を予測する予知能力、そして、難しい事を
簡単そうにやってのける行動力が必要なのではないだろうか。
なんで僕はこんなことを書いているのだろう。僕は、その「次の時代を引っ張って
いくべき人たち」の一人なのではないか、そうなっていく義務がひょっとしたら
僕にはあるのではないか、そんなことを最近思うからかもしれない。
いつも通りの思い込みでいい。
若者の気負いでいいんだ。
迷った時に忘れないように、書き留めておこう。


(参考文献)
辰濃和男『文章の書き方』岩波新書、1994年
長倉洋海『フォト・ジャーナリストの眼』岩波新書、1992年
村上春樹『遠い太鼓』講談社文庫、1993年
※引用文の改行や強調は筆者によるものです。
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by aokikenta | 2008-04-11 14:27 | 日記(イスラマバード)


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