2007年 09月 20日
塞翁が馬
言葉が面白いなって思うのは、言い方一つ違うだけで全然相手の受け取り方が違うということだ。
例えば、今、自分を含めてカブールにいる周りの人たちの多くが死ぬほど忙しくって、いつも切れる寸前で、ベッドに倒れ込むまで働いている人が多いんだけれど、そういう仲間に対して、

「きっと悪いこともあれば、いいこともあるさ」

と言うのと、

「万事塞翁が馬ですから」

と言うのとでは全く印象が違うのではないだろうか。しかも、貫禄のある人に「塞翁が馬」と言われたら、なんか当たり前と言えば当たり前のことを言っているんだけど、やけになるほどなぁっていうようなものがある。いいことがあれば悪いことがある、なんて当然なんだけれど、いざ自分が忙殺されてしまっているとその当然のことすら忘れてしまうことがある。

前、村上春樹の本でこんな文章を読んだ。
主人公(私)の計算士は、敵対する相手から脅され、ナイフで腹を刺されて深い傷を負っていた。

「私は彼女の祖父の事務所にあるビルの駐車場に車を停め、車を降りてナップザックを背負った。傷は一定の時間をおいて鈍く痛んだ。腹の上を干草をつんだ荷車がゆっくりふみこえていくようなかんじの痛みだった。これはただの痛みなのだ、と私は便宜的に考えるようにした。ただの表層的な痛みで、私自身の本質とは無関係なのだ。雨降りと同じだ。通り過ぎていってしまうものなのだ。私は残り少なくなった自尊心のありったけをかきあつめて傷のことを頭から追い払い、急ぎ足で娘のあとを追った。」

(村上春樹 『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド(上)』 P.324)

「私自身の本質とは無関係」な痛み。すごくよくわかる気がした。

きっと僕らの周りにある痛みの多くなんて、自分の本質とは無関係で表層的な部分だけの痛みなのだ。仕事が上手く行かないで落ち込んだ、怒られた、怪我した場所が痛い、顔の吹き出物が痛い・・・etc。人生で一大事のデートの日に顔にニキビができていたって、風邪で体調が悪くたって、病気でお腹が痛くたって、そんな痛みは自分の本質とは無関係でいつか通り過ぎていってしまうものなのだ、と思い込んでいればいいのだ。デートは本質をわかってくれる人とだけすればよい。人間万事塞翁が馬、嫌なこともあればいいこともあるさ。

そう思ったら少しは気持ちが楽になるかもね。
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by aokikenta | 2007-09-20 01:46 | 日記(カブール)


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