2007年 07月 16日
「夢を持て」の欺瞞
「夢を持て。偉大な人たちはみんな子供の頃から夢を持っていたからこそ、人類史に残るような偉業を成し遂げたのだ」。そんな言葉を当たり前のように聞いて育った。日本では賢い子供をみれば、「末は博士か大臣か」とおだて上げるのが慣習だ。そして、次に言う言葉は、「いいか、夢を大きく持つんだ。そうすればきっと夢は叶う」。

目標を持った人間の方が目標を持たない人間よりも良い結果を出すというのは本当だ。スポーツにしても、何も課題を持たないで練習をしても身につくものは少ないが、自分なりに課題を持った方が伸びが早い。

しかし、「夢を持て」という言説は同時に危うさを抱えている。夢を持てばきっと将来は偉人になれる。それは即ち、夢を持っていなければ平凡な人生を送る事になる、と同義だ。夢を追いかけるのは格好いいが、世間の多くの人は、ご飯を食べていく事、家族を養う事で精一杯だ。明確に将来なりたいものが自分にはないのだから、自分の人生はきっと平凡に終わっていくに違いない。そんな悲観主義者を生む可能性を大きく孕んでいるのだ。

果たして、「夢を持て」という言説は正しいのか。

僕は思う。

偉人は、子供の頃から夢を持っていたから偉業を成し遂げたのではない。
偉業を成し遂げたから、子供の頃から夢を持っていたとされたのだ―――。

要するに、「夢を持て」の言説には、因果関係の逆転現象が起こっているのではないかと思う。子供の頃から一つの夢を追いかけたから夢を叶えたわけではなくて、ある偉業を成し遂げたその瞬間に、子供の頃から飽くことなく夢を追いかけ続けた少年・少女という過去が作られたのだ。認識論的に言えば、世界の存在は「私」という主体の認識によってしか証明できない。こうした考え方でいけば、過去の世界も歴史も主観によってしか認識できないということだ。言い換えれば、歴史認識は人によって千差万別になり得る。何故なら、歴史を認識するのも主観に頼ってしまうのであり、主観は人によって異なるものだからだ。

夢を持てば偉業を成し遂げられる、という言説もデュルケムがいうところの社会的事実のようなもので、現代に住む我々の多くの人々がそれらしき共通認識を持っているからこそ存在する抽象的なものだ。その社会的事実が、偉人達の過去を書き換えてしまうのではないだろうか。偉人達の全員が全員、子供の頃から偉業を成し遂げることを夢として、それに邁進してきたとはどうしても思えない。

僕がこんなことを書くのは、こうした「夢を持て」という言説によって、希望を失ってしまう人が出てしまうのではないかと危惧するからだ。夢がなければ偉人にはなれない、そうしたら確たる夢もないままに人生の3分の1を終えてしまった僕はきっと平凡な人生を送る定めなのだ---。そんな悲劇が今も世界のあちこちで起こっているのではないかという気がしてならない。

僕は、目の前の事を一生懸命頑張る、そうすると自然に次にすべき事が見えてくると思っている。確かに、将来は学者になる、政治家になるというような崇高な夢を持ち続けて、努力の末にそれを叶える人もいるだろう。しかし、自分がやりたい事で、且つ、自分の才能のある事を見つけ出せる人の数は世界の中でごく限られている。目の前にあるものに精一杯取り組めば、それが自然と自分のやりたい事になっている。

だから、全て仕事の内容に一貫性のある美しい履歴書を追いかける必要などない。その時々の流れと決断で自分だけの履歴書を作っていけばいいのだ。一角の人物になった時、世界一周放浪旅行は「世界のあり方を理解するのに必要だった」と解釈され、無職の期間は「自分の適性を見つけ出し将来を見据える為に必要な期間だった」になり、飲み歩いた日々は「他社とのコミュニケーションの方法を学んだ日々」に、自然となっているであろう。

「夢を持て」は欺瞞だ。
貴方が偉業を成し遂げた時、貴方の少年・少女時代は目に見えない大きなものによって、美しく書き換えられているはずだ。
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by aokikenta | 2007-07-16 00:40 | 日記(カブール)


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