2007年 06月 24日
写真と主体/客体
僕が写真を撮るのが好きなのは、主体と客体の対立関係をものすごく意識するからだ。写真に写るのは僕のパースペクティブから見た世界。もちろん、3次元を2次元に置き換えているわけだからどっかに虚構が混じっているに違いない。でも、写真には撮影者の恣意性が反映され、特別に選択された個性が滲み出る。僕が撮った写真は、僕の認識を反映しているもの。それを人が見られるというのはすごいことだ。

逆に言えば、自分の視点で自分を切り取ることは不可能だ。リモコンで限りなくそれに近いことはできるかもしれない。でも、それは機械を使ったまやかしだ。きっと、自分の事を大好きに思ってくれる人に撮ってもらう写真が一番いい写真に違いない。

言語も写真と同じで、同じ情景を描写しても書き手によって全然違うものが出来上がる。大体、言語自体がとても恣意的なもので、例えば、英語では兄と弟の区別がないが、日本語にはしっかりと存在する。英語と日本語はまったく別の制度を持っているということだ。日本語の中にだって同じことが起こる。

でも、最近の文章の世界では、どのパースペクティブから見ているのかよくわからない小説が存在する。前に日本に帰った時に村上春樹の新しい小説を読んだが、主体の視点が同じ小説の中で移り変わってしまっている。小説の教科書から見たら駄目な作品なのだろうけど、きっと前衛的で新しい試みなのだろう。

この進み方は絵の世界の発展に似ている。ムンクやピカソの絵なんかは、主体のパースペクティブがどこにあるかよくわからない絵。同じキャンパスに、正面から見た顔や横顔が並んでしまう。ここまで行くと、西欧が何千年かけて築いてきたものを完全に破壊して新しいものを作ろうという意識がありありと見える。

写真で同じ試みをしたらどうなるのだろう。いつ、どこで撮ったのかが消えてしまっている写真。そんなものが撮れたら僕はピューリッツァー賞を取れるかもしれない。
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by aokikenta | 2007-06-24 22:36 | 日記(カブール)


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